日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【前編】

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日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【前編】

15世紀末。応仁の乱以降の日本国内の情勢は乱れ、室町幕府による統治体制は綻びを見せる。各地を統治していた守護大名は戦国大名化し、独自の支配体制を模索し始めたことで戦国時代が到来した。

戦国の始まりは曖昧だが、独自性の高い領地支配の先駆けとされる人物は存在する。今回は、日本最初の戦国大名といわれる「北条早雲(ほうじょうそううん)」の生涯をご紹介する。

出生と出自

1456年。父「伊勢盛定(いせのもりさだ)」の所領である備中国(現在の岡山県)に生まれたとされる。伊勢氏は室町幕府において職制機関の一つである政所を世襲した由緒ある家系であり、盛定は伊勢氏の支流にあたる一族と考えられている。

生前の早雲は「伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)」と名乗り、北条早雲の名は死後に使用された名である。

岡山県にある「北条早雲生誕の地」碑(Wikipediaより)

今川氏との関係と駿河下向

早雲の兄弟である「北川殿(姉、もしくは妹)」は、駿河今川家8代当主「今川義忠(よしただ)」に嫁いでいた。しかし、1476年、応仁の乱において東軍に属していた義忠は、同じ東軍の斯波氏によって討ち取られてしまう。

残された遺児である「龍王丸(今川義元の父)」は幼く、今川家内に家督争いが勃発する。反龍王丸派が、義忠の従兄弟である「小鹿範満(おしか のりみつ)」を擁立したことで駿河情勢は混沌した。

早雲は父の命を受けて家督争いの仲裁のために駿河へ下向する。早雲の働きによって龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで騒動は決着した。

今川家の中心人物から戦国大名へ

1487年。早雲の仲介によって今川家を実質的に支配していた小鹿範満は、龍王丸が15歳になっても家督を譲ろうとはせず約束を反故にした。

北川殿と龍王丸に頼られた早雲は再び下向。駿河館を襲撃して小鹿範満を殺害。龍王丸は2年後に元服して「今川氏親(いまがわうじちか)」を名乗り今川家当主となる。早雲は駿河国内の興国寺城に所領を与えられたことを契機に駿河に留まり氏親を補佐したとされる。

北条早雲(Wikipediaより)

この時期の早雲は、父と共に幕府の要職にあったとされ、室町幕府9代将軍・足利義尚の「申次衆」(もうしつぎしゅう)の任を1487年まで務めたとされる。

駿河に拠点を移し申次衆から解かれた事で、以後の早雲の活動は独自性が強くなり、戦国大名としての位置付けが明確化していく事になる。

【中編】へ続く

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