日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【中編】

15世紀末から始まったとされる戦国の世。数多くの武将たちが凌ぎを削った時代にあって、戦国大名の先駆けとされる人物「北条早雲(ほうじょうそううん)」。
今回は、【前編】に引き続き、北条早雲の生涯をご紹介する。
前回の記事
日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【前編】 伊豆侵攻当時の伊豆半島は室町幕府の将軍家一族である「足利 政知(あしかが まさとも)」が堀越公方として治めていた。
政知には3人の男児がおり、3男の「潤童子(じゅんどうじ)」を後継指名し、1491年に死亡する。廃嫡され幽閉されていた嫡男の「茶々丸(ちゃちゃまる)」は、父の死後に脱獄。潤童子と継母を殺害し、事実上の堀越公方の座を奪った。
1493年。明応の政変によって、室町幕府11代将軍に政知の次男であった「足利義澄(あしかが よしずみ)」が擁立される。義澄は潤童子の実兄であり、母と弟を殺害し堀越公方の座を奪った茶々丸殺害を早雲に命じた。

義澄の命を受けた早雲は、今川氏親の支援を受け打倒茶々丸に挙兵。6年間をかけて伊豆半島の支城を落とし、茶々丸が籠る半島突端の深根城に迫った。追い込まれた茶々丸は甲斐国(現在の山梨県)に逃亡し、早雲による伊豆平定が成った。
関東進出と小田原城奪取伊豆を平定した早雲は関東南部(相模方面)に進出する。関東地方は代々上杉氏の所領であったが、1487年頃から始まった山内上杉氏家と扇谷上杉家の間の争いが続いていた。早雲は扇谷上杉家に与し、小田原の武将「大森藤頼(おおもりふじより)」を討ち小田原城を奪取した。

早雲が奪い、後に北条氏の本城となる「小田原城」(Wikipediaより)
早雲の小田原城奪取の経緯については不明な点が多い。通説では早雲の騙し討ちによって小田原城を奪取したとされているが、大森藤頼は扇谷上杉家方の武将であり、本来早雲とは敵対関係になかった。近年の研究では大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている。
1498年には伊豆侵攻の折に取り逃した茶々丸の捕縛に成功。殺害したとも自害させたとも伝わっている。小田原城を手中に治めた早雲は、以降本格的な関東進出へ動き出していく。
【後編】へ続く
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