戦国時代きっての傾奇者?武将・前田利家の過激で豪快すぎる死に様

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戦国時代きっての傾奇者?武将・前田利家の過激で豪快すぎる死に様

時は戦国、若い頃から数々の武功を立てて「槍の又左衛門(またざゑもん。又左)」の異名をとり、ついには加賀国百万国の大大名にまで立身出世を遂げた前田利家(まえだ としいえ)。

加賀百万石の祖・前田利家。Wikipediaより。

主君の織田信長(おだ のぶなが)や盟友の豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、そしてライバルの徳川家康(とくがわ いえやす)と言った英雄たちと交わる中で時代の趨勢に大きな影響力を及ぼした利家ですが、その死に様もまた豪快なものだったそうです。

いったい、どんな最期を遂げたのでしょうか。

愛妻・まつが縫ってくれた経帷子を断る

前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)閏3月3日のこと。いよいよ病も重くなった利家に、正室・まつは自分で縫った経帷子(きょうかたびら)を着せようとします。

経帷子とは死に装束の一つで、白い帷子(裏地のない、単衣の着物)の裏地に経文を書き、その功徳によって後生(ごしょう。来世)の成仏を願うものです。

「……あなたは昔から数々の戦場(いくさば)をくぐり抜け、多くの命を奪って参りました。その罪過によって地獄へ堕とされぬよう、どうかこの経帷子をお召し下さいまし」

利家を愛し、加賀百万石の大大名にまで出世させた良妻賢母らしい気配りですが、利家は笑ってこれを断ります。

思えば初陣以来数十年、多くの敵を屠ってきたが、一片たりとも悔いはない。『前田犬千代初陣図』

「何を申すか。確かにわしは数知れぬ人を殺(あや)めては来たが、ひとたび戦場へ出たならば、死ぬも殺すも覚悟の上。それが武士(もののふ)というものであって、罪なき者を理由もなく殺したり、虐げたりしたことはないわい」

「それはそうでしょうが……」

「……それでも閻魔がわしを地獄に堕とすと言うなら、面白い。先に逝った戦友たちと共に、地獄の鬼ども相手に一戦を挑み、地獄を征服してくれよう……よって、せっかくの経帷子じゃがわしには不要。それはお前が着て、後からついて来るがよい」

流石は槍の又左衛門と言うべきか、老いてどころか死の床にあってなお盛んな大言壮語。まつも苦笑いしたことでしょう。

傾奇者らしい?過激な最期(諸説あり)

しかし、そんな利家も病魔には勝てず、いよいよ危篤になると全身を激痛が襲います。

「あなた!しっかりなされませ!」

「ぐぬぅ……っ、何のこれしき……痛いものか!痛くない!痛くないぞ!」

とまぁしばらくそんな感じでやせ我慢していた利家でしたが、いよいよ限界が来たようで、最後の力を振り絞ります。

「えぇい、どうせ死ぬならさっさとすればよいものを……まどろっこしい!」

利家はいっそ楽になろうと周囲が止めるのも聞かず、一思いに切腹してしまったのです。そのまま放置していては更に苦痛でしょうから、きっと介錯も頼んだことでしょう。

きっと地獄でも大暴れ。延一「桶狭間 前田犬千代軍功」

数々の首級を上げた「槍の又左衛門」の最期は、自分の首級を上げさせるという壮絶なものでした。

このエピソードは『越登賀三州志』などによるものですが、利家の死を境に前田家を離れ、徳川家康に仕えた徳山則秀(とくのやま のりひで)が利家の最期を話すと、家康は天晴れなる心意気と褒め称えたそうです。

若い頃から傾奇者(かぶきもの)として知られ、過激な生き方を好んだ利家は、その最期まで過激だったのでした。

※参考文献:
岩沢愿彦『前田利家』吉川弘文館、1988年9月
富田景周『越登賀三州志』石川県図書館協会、1973年1月

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