独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【後編】

Japaaan

独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【後編】

創建以来、日本有数の寺社として成長した「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」。武装化によって強大な権力を蓄えた延暦寺は、時代と共に存在感を増していった。

今回は、【前編】に続き延暦寺の武装化についてご紹介する
前編の記事はこちら

独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【前編】

度重なる強訴

延暦寺は神罰や武力をかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を認めさせる行動「強訴(ごうそ)」を繰り返した。強訴は10世紀後半頃から顕著になり、12世紀の白河上皇は自身の思い通りにならない対象として延暦寺の僧兵を挙げている。

代表的な強訴

【建久2年の強訴】
1191年。延暦寺に千僧供料を貢納する義務を追っていた近江国守護・佐々木定綱は、水害による不作によって貢納が滞る。怒った延暦寺は定綱邸を襲撃し乱暴狼藉を働いた。次男の定重は迎え撃つが神鏡を破損してしまう。

神鏡の破壊は極刑に値する重罪であり、事件は朝廷・幕府を巻き込む大事に発展。延暦寺は定綱の死罪を求めて朝廷及び源頼朝に強訴し、頼朝はこれに屈服して定綱ら親族を配流した。

【天文法華の乱】
1536年。当時京都を中心に勢力を拡大していた日蓮宗は、延暦寺と宗教問答を展開。結果的に立場を悪くした延暦寺は、日蓮宗に抗議する形で幕府に裁定を求めるも敗訴。日蓮宗撃滅の武力行使に出る。延暦寺は近隣大名の援軍を得て、京都における日蓮宗の寺社を焼き払い門徒を殺害した。

 延暦寺の強訴を受けた「源頼朝」(Wikipediaより)

武士との対立と権威失墜

神仏を盾に強訴や武力行使など、強引な手法で独立勢力を維持し続けた延暦寺だが、武家との衝突によって弱体化したこともあった。

【足利義教による制圧】
1435年。時の室町幕府6代将軍「足利義教(あしかがよしのり)」は、比叡山の長であった人物で、将軍就任後は比叡山と対立した。延暦寺は強訴に参加しなかった園城寺を焼き討ちにしたことで義教の怒りを買い、比叡山を包囲され、結果的に4名の門徒が打ち首となった。延暦寺は抗議として比叡山に火を放ち、24人の門徒が焼身自殺した。

【織田信長の焼き討ち】

戦国末期には尾張国の大名「織田信長(おだのぶなが)」と敵対する。武装解除を拒否した結果、比叡山は焼き討ちされ、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

その後

焼き討ちによって武力を削がれた比叡山は、信長の死後になって焼失した寺社を再建。その後は本格的な武装化はされず本来の寺社としての体裁を保った。

現代まで日本仏教の母山として仰がれ、数多くの参拝者が比叡山を訪れている。1994年にはユネスコの世界遺産に登録された。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、強訴武装化天台宗延暦寺最澄カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る