瀬戸内海を牛耳った戦国の海賊!村上水軍「謎のルーツと消滅の理由」

日刊大衆

写真はイメージです
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 七年前に出版された長編歴史小説『村上海賊の娘』(和田竜/新潮社)で知名度が上がった「村上水軍」。戦国時代に瀬戸内海の制海権を握った彼らのルーツはどこにあり、なぜ消滅したのか――。

 瀬戸内では平安時代、貴族の藤原純友があぶれ者の集団を率いて暴れ回ったが、今回は主に戦国時代、“水軍を率いた武士の集団”を海賊と規定する。

 そんな彼らは札浦と呼ばれる“海の関所”を設けて関役や上うわ乗のり料を徴収する一方、水軍を率いて守護大名や戦国大名の警固衆として活躍。海を航行する船から無事を保障する代わりに通行料を取り立てることを主な生業とする一方、大名に水軍としての腕を売る“海の傭兵”のような存在で、ルーツについては諸説ある。

 その一つが当時、都から伊予大島に流されていた下級貴族が、海辺の村人らを率い、藤原純友の追討に功績を残したことから村の君、つまり村君が転じて村上になったというもの。

 一方、江戸時代初めの『能島来島因島記』によると、清和源氏の棟梁だった源頼義の弟の頼清の子である仲宗が、村上天皇に連なる貴族の娘を娶って、村上を名乗ったのだという。

 この仲宗は平安末に院政が始まる時代の人物で、その子が白河上皇を呪詛した嫌疑で配流され、信濃国村上郷(長野県坂城町)に居住したことから村上を氏名にしたとの説もあり、これが最も有力ではないか。

 この“村上郷”居住説については、信濃村上氏の一流が瀬戸内に進出し、淡路島から塩しわく飽島に移ったものの、平氏の台頭によってさらに西に流され、のちに伊予の戦国大名となる河野氏を頼ったとされる。

 村上氏はその後、芸予諸島(広島と愛媛に挟まれた瀬戸内海中西部に浮かぶ島群)の能島、来島、因島の三家(三島村上氏)に分かれて能島村上氏が宗家となり、その名を史料上、初めて確認することができるのは貞和五年(1349)で南北朝争乱の頃。彼らは東寺領の荘園を横領する悪党から排除するために働き、いわばボディガード代として「酒肴料」を受け取っていた。

 一方、因島村上氏の初出は室町時代の応永三四年(1427)で、彼らは遣明船を警固し、三島村上氏はいずれも海の傭兵的な役割を担い、伊予の河野氏と繋がりが深く、特に来島村上氏は同氏で内紛が起きた際、当主である河野通直を島で保護。当時の来島村上氏の当主が通康で、河野一族の通字を賜ったことからも、その関係の深さがうかがえる。

 その河野氏は戦国時代、四国で急激に勢力を伸ばした土佐の長曾我部元親に対抗するため、同じく中国地方で勢力を急拡大する毛利氏と連携。その毛利が大坂本願寺と組み、織田信長を苦しめた。

 特に天正四年(1576)、織田勢は大坂の本願寺(石山御坊)を包囲して兵粮攻めにすべく、信長は、和泉淡輪(岬町)の海賊だった真鍋氏に大坂湾の封鎖を命令した。

 全国の門徒宗(本願寺の信徒のこと)や毛利方が兵粮を海から本願寺に運び入れることを阻止するためで、こうして『村上海賊の娘』の舞台となった木津川口海戦の火蓋が切られる。

 同年七月、毛利の武将だった児玉就英が水軍を率いて、大坂湾口の木津河口に来襲。本願寺に一年分の兵粮を補給することが目的で、軍艦と兵粮船を合わせて七〇〇~八〇〇艘という大船団の主力はむろん、村上水軍だった。『武功夜話』に「上方の水軍(織田)は大船の仕立に候ところ、毛利(村上)水軍の戦振り小船……」とあり、織田水軍の主力が安宅船(戦艦)である一方、村上水軍は機動性を重視した関船(巡洋艦)だったのだろう。

 村上水軍は実際、「小船の中に十四人の舵取り掛け声もろともに櫓拍子あわせ、大船めがけて漕ぎ寄せ来たり」とされ、機動性をいかした攻撃を展開し、「数十艘八面より大船に近付き、飛び乗り切り廻し」とあるように織田水軍を圧倒。村上水軍はその際、武器についた紐を持って回し、遠心力を利用して敵船に投げ入れる当時の手榴弾「焙烙火矢」を使い、織田水軍の軍艦の大半がこの新兵器によって大破し、その将兵は「海中へ飛び入り溺死その数を知れず」とされる大敗を喫した。

 結果、毛利と村上水軍は本願寺に兵粮を補給することに成功したばかりか、大坂湾の制海権も確保。

■秀吉の天下統一により終焉のときを迎えた!

 一方、織田勢が毛利攻略を本格化させると、司令官だった羽柴秀吉が巧みに村上氏らを懐柔。

 来島村上氏がまず、織田方に属し、宗家である能島村上氏の武吉と元吉の父子にも天正一〇年(1582)四月一九日付で、秀吉からの書状が届き、その文面から同様に懐柔されつつあった事実を確認することできる。

 こうした中、同年六月に本能寺の変が発生。秀吉が信長の後を継ぎ、毛利氏が彼に臣従して河野氏が事実上、滅亡すると、早くから織田方となっていた来島村上氏の当主である通総は、伊予風早郡で一万四〇〇〇石を与えられた。

 この来島村上氏はその後、秀吉による朝鮮出兵の際、船手衆としてその名が出てくる反面、宗家である能島村上氏は因島村上氏ともに確認することができない。

 というのも、秀吉が出兵前の天正一五年(1587)六月、海賊禁止令を発布していたにもかかわらず、村上元吉が当時、海上で関役を徴収する海賊行為を行っているとして、その逆鱗に触れたためだ。

 こうして能島村上と因島村上氏の組織は事実上、解体させられ、江戸期にはそれぞれ毛利氏(長州藩)の船手組として、かろうじて海賊時代のよすがを残すだけとなった。

 一方、来島村上氏は関ケ原の合戦(1600年)のあと、内陸部の豊後玖珠郡に転封となり、森藩(玖珠町)として残ったものの海とは切り離され、秀吉の天下統一とともに、海賊の時代もこうして終焉した。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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