瀬戸内海を牛耳った戦国の海賊!村上水軍「謎のルーツと消滅の理由」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 七年前に出版された長編歴史小説『村上海賊の娘』(和田竜/新潮社)で知名度が上がった「村上水軍」。戦国時代に瀬戸内海の制海権を握った彼らのルーツはどこにあり、なぜ消滅したのか――。

 瀬戸内では平安時代、貴族の藤原純友があぶれ者の集団を率いて暴れ回ったが、今回は主に戦国時代、“水軍を率いた武士の集団”を海賊と規定する。

 そんな彼らは札浦と呼ばれる“海の関所”を設けて関役や上うわ乗のり料を徴収する一方、水軍を率いて守護大名や戦国大名の警固衆として活躍。海を航行する船から無事を保障する代わりに通行料を取り立てることを主な生業とする一方、大名に水軍としての腕を売る“海の傭兵”のような存在で、ルーツについては諸説ある。

 その一つが当時、都から伊予大島に流されていた下級貴族が、海辺の村人らを率い、藤原純友の追討に功績を残したことから村の君、つまり村君が転じて村上になったというもの。

 一方、江戸時代初めの『能島来島因島記』によると、清和源氏の棟梁だった源頼義の弟の頼清の子である仲宗が、村上天皇に連なる貴族の娘を娶って、村上を名乗ったのだという。

 この仲宗は平安末に院政が始まる時代の人物で、その子が白河上皇を呪詛した嫌疑で配流され、信濃国村上郷(長野県坂城町)に居住したことから村上を氏名にしたとの説もあり、これが最も有力ではないか。

 この“村上郷”居住説については、信濃村上氏の一流が瀬戸内に進出し、淡路島から塩しわく飽島に移ったものの、平氏の台頭によってさらに西に流され、のちに伊予の戦国大名となる河野氏を頼ったとされる。

 村上氏はその後、芸予諸島(広島と愛媛に挟まれた瀬戸内海中西部に浮かぶ島群)の能島、来島、因島の三家(三島村上氏)に分かれて能島村上氏が宗家となり、その名を史料上、初めて確認することができるのは貞和五年(1349)で南北朝争乱の頃。彼らは東寺領の荘園を横領する悪党から排除するために働き、いわばボディガード代として「酒肴料」を受け取っていた。

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