徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【後編】 (2/3ページ)
1585年頃には、北条氏の勢力圏は西は伊豆から北は下野国(現在の栃木県)常陸まで240万石に及んだとされ、氏政は北条家の最盛期を作り上げる。
秀吉との対立景虎の自害以降、敵対関係にあった上杉氏が羽柴秀吉と組むと、北条氏は同盟関係にあった徳川氏と共に秀吉と対立した。
しかし、秀吉は1587年に九州を平定すると、関東と奥羽の諸大名に惣無事令(大名間の私闘を禁じる令)を発令。翌年には徳川氏や毛利氏などの有力大名に臣従を誓わせることに成功し、天下統一の基盤を整えていった。
1588年。秀吉に臣従を迫られた氏政だったが、申し出を拒否し臨戦態勢を取る。徳川家康の説得もあり、一時は上洛を受け入れた氏政だったが、何かと理由をつけ上洛を先延ばしにした。
1590年。業を煮やした秀吉は、諸大名に北条氏討伐の号令を出す。
小田原合戦同年2月。秀吉は20万以上の兵を従えて北条氏の本拠地である小田原城を目指した。氏政はいずれ秀吉と戦になることを想定していたようで、主力約5万を小田原城に集め、徹底した篭城戦略を取った。
小田原城は広大な堀に守られた難攻不落の城として有名であり、約3ヶ月間に渡って秀吉軍の猛攻に耐えた。