徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【後編】

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徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【後編】

戦国時代。関東の覇権を握った北条氏は、天下統一を成した豊臣秀吉に最後まで抗い滅亡した

今回は【前編】に続き、滅亡時に実権を握っていた人物である北条家4代目当主「北条氏政(ほうじょううじまさ)」の生き様を紹介する。

前回の記事

徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【前編】

北条氏直(Wikipediaより)

信長の死

1582年。織田信長は甲斐国の武田氏を滅したことによって、関東での勢力を拡大した。氏政は関東における北条家の領土安堵を信長に願い出ていた。氏政は室町幕府15代将軍足利義昭を伴って上洛し、武田氏を滅した信長の勢いを恐れていたという。

しかし、同年の6月。本能寺で信長が横死すると状況は一変する。氏政は関東を治めていた織田家の家臣滝川一益を神流川の戦いで破ると、同様に侵攻してきた徳川軍と和睦。上野国(現在の群馬県)を手に入れる。

1585年頃には、北条氏の勢力圏は西は伊豆から北は下野国(現在の栃木県)常陸まで240万石に及んだとされ、氏政は北条家の最盛期を作り上げる

秀吉との対立

景虎の自害以降、敵対関係にあった上杉氏が羽柴秀吉と組むと、北条氏は同盟関係にあった徳川氏と共に秀吉と対立した。

しかし、秀吉は1587年に九州を平定すると、関東と奥羽の諸大名に惣無事令(大名間の私闘を禁じる令)を発令。翌年には徳川氏や毛利氏などの有力大名に臣従を誓わせることに成功し、天下統一の基盤を整えていった。

1588年。秀吉に臣従を迫られた氏政だったが、申し出を拒否し臨戦態勢を取る。徳川家康の説得もあり、一時は上洛を受け入れた氏政だったが、何かと理由をつけ上洛を先延ばしにした。

1590年。業を煮やした秀吉は、諸大名に北条氏討伐の号令を出す。

小田原合戦

同年2月。秀吉は20万以上の兵を従えて北条氏の本拠地である小田原城を目指した。氏政はいずれ秀吉と戦になることを想定していたようで、主力約5万を小田原城に集め、徹底した篭城戦略を取った。

後北条氏時代の小田原城の空堀(Wikipediaより)

小田原城は広大な堀に守られた難攻不落の城として有名であり、約3ヶ月間に渡って秀吉軍の猛攻に耐えた。しかし膨大な戦力差を前に追い詰められた北条氏は7月に開城し降伏。小田原城を明け渡すこととなった。

最後

1580年に家督を継いで5代目当主となっていた氏直は助命されたが、氏政と弟の氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁の4名は、戦の責任を追う形で切腹となった。氏政は7月11日に切腹し果てた。享年53。

氏政は家督を氏直に譲って以降も実質的に実権を握っていた。氏政が秀吉に最後まで抗った明確な理由は定かでないが、すでに臣従していた上杉氏よりも立場が下がることを懸念したとする説や、中央政権からの独立志向が高い東国武士の資質によるものだとする説など、様々な理由が推察されている。

最終的には北条家滅亡の原因を作ってしまった氏政だが、北条氏勢力圏の最盛期を築くなど、53年の人生において絶頂とどん底の両方を味わった戦国武将といえるだろう。

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