水上の小舟で切腹。秀吉に武士の鏡と称賛された戦国武将「清水宗治」の忠義【前編】
1582年。織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、備中国(現在の岡山県)備中高松城を攻めた。「日本三大水攻め」に数えられる備中高松城の戦いは羽柴軍と毛利軍の和睦によって解決をみたが、その背景には備中高松城城主の切腹があった。
今回は、主家・毛利氏に対する忠義を貫き自刃した戦国武将「清水宗治(しみずむねはる)」の武士道をご紹介する。
出生から台頭まで
1537年。備中国に清水宗則の次男として生まれる。出生に関する詳細はわかっていない。
清水氏は6世紀頃に備前国に派遣された豪族の末裔と考えられており、戦国初期には備中国で一定の勢力を誇っていた三村氏の有力家臣・石川氏に仕える一族となった。
戦国前期の備中国は国内の領主が覇権を争い続ける不安定な国であり、中でも三村氏と毛利氏の対立は激しかった。1575年。三村氏及び石川氏は毛利氏によって滅ぼされるが、清水宗治は毛利氏に加担したことによって存続した。
宗治が備中高松城城主になった経緯は不明だが、三村氏の滅亡前後であると考えられている。
毛利氏家臣時代毛利氏に加担した宗治は、12代当主・毛利元就の三男である小早川隆景に仕えた。
1566年。毛利氏は絶対的な影響力を誇っていた元就と、孫の14代当主・輝元によって中国地方をほぼ統一。全国でも有数の大名家となる。
一方、京都では織田信長が足利義昭を伴い上洛に成功し、戦国大名として台頭。元就の時代には友好関係にあった両国だったが、1573年に信長が追放した足利義昭を輝元が庇護したことから関係が悪化する。
信長にとって天下統一の障壁となる毛利氏は滅ぼさなければならない相手であり、1577年以降になると中国攻めを本格化させた。中国地方の派遣を争う毛利氏と織田氏の戦いは、信長が本能寺で横死するまでの6年間に及び、宗治は隆景の元で織田軍との交戦に身を投じていく。
【後編へ続く】
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