地獄の兵糧攻めに餓死者続出。羽柴秀吉が決行した「鳥取城渇え殺し」【後編】 (2/2ページ)

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秀吉軍の到着前に十分な兵糧の確保ができなかった鳥取城には、約1ヶ月分の備蓄しか残されていなかったという。

兵糧はあっという間に底を突いたが、秀吉軍の戦略によって毛利氏からの援助は期待できず、鳥取城は完全に孤立。籠城兵や農民は城内の家畜や植物などを食べ生き長らえたものの、2ヶ月が過ぎる頃には食べるものがなくなり餓死者が目立ちはじめる

3ヶ月を過ぎると餓死者が続出し、遺体を食べて生き延びる者もあったという。織田信長の生涯を追った資料「信長公記」には、この時の凄惨な様子が記載されている。

鳥取城(Wikipediaより)

経家の降伏

10月。約4ヶ月の籠城に絶えた鳥取城だったが、経家は城兵の助命を条件に降伏を決定。経家自身も助命される運びとなったが、城主としての責任として切腹を直訴。10月25日。家族宛に遺言書を残し、切腹して果てた。

秀吉による鳥取城攻めは凄惨で悲劇的な兵糧攻めの様子から、「鳥取城の渇え殺し」として後世に伝わっている。

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