主君を幾度も変え一兵卒から大出世を遂げた戦国武将・藤堂高虎に学ぶ能力開発【後編】
一兵卒からスタートし、主君を幾度も変えて、最終的には32万石の大名にまで昇りつめた藤堂高虎(とうどうたかとら)。今回は「能力開発」という観点から、彼がなぜ大出世を遂げることができたのかを考えていきたいと思います。
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主君を幾度も変え一兵卒から大出世を遂げた戦国武将・藤堂高虎に学ぶ能力開発【前編】 水軍指揮能力高虎の主君・秀長の領地は紀伊(和歌山県)にも及んでいました。紀伊には源平合戦の頃から強力な水軍が存在していましたが、秀長の重臣となった高虎は、彼ら水軍の指揮権も握っていました。
秀長が病没すると養子の秀保がその跡を継ぎますが、高虎はその名代として豊臣秀吉が始めた朝鮮出兵に参戦し、水軍を率いて活躍しています。
秀保が夭折すると、高虎は豊臣秀吉に仕えることになるのですが、秀吉が高虎に与えた領地は伊予(愛媛県)宇和島でした。宇和島は紀伊と同じく水軍の拠点として知られており、秀吉は高虎の水軍指揮能力を評価し、それを活かせる場を与えたと考えられます。
さらに時は流れ、豊臣秀吉は朝鮮に大勢の日本兵を送り出したままこの世を去ります。
残された人たちの頭を悩ませたのは、いかにして朝鮮の日本軍を無事に引き揚げさせるかということでした。
「敵水軍の妨害を排除しつつ、安全を確保しつつ速やかに兵を運ばねばならん。そんなことができるのは……」
秀吉亡き後、第一人者となった徳川家康が白羽の矢を立てたのが、高虎でした。
高虎に宇和島を与えた秀吉と同様、家康も高虎の水軍指揮能力を高く評価していたと考えられます。また、任務遂行に際しては築城で培った大人数を効率的に動かすノウハウも役立ったことは想像に難くありません。
このように実務家として活躍した高虎でしたが、江戸幕府の大名となった晩年に挙げた大きな功績の一つが
「徳川秀忠の娘を天皇の后にするための交渉をまとめたこと」
でした。
家康、そして秀忠は江戸幕府(徳川家)の権威を高め、朝廷に対しても影響力を行使するために天皇家との婚姻を望みましたが、朝廷側は当然ながら警戒します。さらには当の天皇に隠し子が発覚するなどして事態は泥沼化しますが、幕府側の責任者となった高虎が
「この婚姻が成らぬ場合は、私はこの場で腹を切って死ぬ」
と公家たちを恫喝し、強引に押し切ったとされています。全身疵だらけの巨漢に睨まれたら、私なら泣く。絶対泣く。
とはいえ、高虎は力押ししかしなかったわけでもないようです。
高虎は宇和島を与えられ独立した大名になった頃から、藤原氏の末裔を自称するようになっていました。その関係で、藤原氏のトップであり最高ランクの公家であった近衛家に接近します。
近衛家の側も、心中では「何だこの成り上がり者は」などと思っていたかもしれませんが、武力も経済力も持っていた高虎と誼を通じることは好都合だったのでしょう。両者の間には長く友好的な関係が結ばれていました。
さらに高虎は(見た目は傷だらけのマッチョですが)文学や能、茶の湯にも通じており、他の公家や文化人たちとの交流もありました。
以上を踏まえると、公家たちとのコネを見込まれて幕府側の責任者に任命され、当初は友好的な関係に基づいて交渉を進めていたが、ここぞという時に強硬な手段で押し切って交渉を取りまとめた、というストーリーが思い浮かびます。
いずれにせよ、平清盛以来、実に400年ぶりに「武家の娘が天皇に嫁ぐ」という快挙(あくまで江戸幕府にとって)が実現したのは、高虎の交渉力あってのことでした。
藤堂高虎の能力開発・まとめここまでご紹介した、藤堂高虎の能力開発の推移をまとめてみます。
高虎は生まれつき個人的な戦闘力に恵まれていましたが、それに頼ることなく積極的に能力開発を続けました。
その際は、陸軍指揮や領内統治といった武将なら誰もが備えている能力をしっかり備えつつ、水軍指揮や築城、朝廷との交渉力といった他の武将があまり持っていない能力にも目を向け、ゼロから身に付けています。
既にある分野で能力と実績のある人が、未知の分野に踏み込むのは億劫なものです。
「俺は戦場で活躍する男だから、他は要らないんだ」
と目をつぶるのは簡単ですし、当時はそんな人がたくさんいました。
しかし高虎は違いました。敵将であった三成に自軍の改善点を尋ねたことからも分かるように、自身の成長に常に積極的だったのです。
藤堂高虎といえば「主君を幾度も変えた」ことばかりが有名ですが、こうした能力開発に対する姿勢はもっと注目されるべきであり、現代を生きるわれわれが見習うべきポイントではないでしょうか。
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