鎌倉幕府で執権政治を築いて支配も……北条義時「北条氏ではない」疑惑! (2/3ページ)
ただ、それでも義時は即、北条氏の嫡流とはならなかった。その理由が弟である政範の存在だ。彼は時政と牧の方の間に生まれた末っ子。時政は、頼朝が挙兵する少し前とみられる頃、牧の方を後妻に迎えた。頼朝の妻・政子や義時にとっては継母に当たる。
頼朝が挙兵したときの時政は四〇代前半で、『愚管抄』に「時正(政)、若き妻をもうけて……」と記された通り、かなり年齢差があったのだろう。時政が今でいう“年の差婚”で迎えた若い妻を愛し、彼女の生んだ子を嫡男にしようとしたことは理解できる。『吾妻鏡』によると、その末っ子は元久元年(1204)一一月に一六歳で亡くなり、官位は従五位下で、左馬権助に任じられていた。
義時も同年三月に従五位下に叙勲されて相模守に任じられたが、彼は当時、四二歳の壮年期にあり、それまでの活躍が評価されたもの。一方の政範の一六歳という年齢を考えれば破格の扱いと言えるだろう。
だが、政範が亡くなり、時政が義時をすぐに北条嫡流にしたかといえば、そうでもない。時政は義時の次男である朝時に後を継がせようとしたようだ。
義時の妻の一人に、源頼朝の紹介で正室に迎えた比企朝宗の娘(姫前という)がいる。彼女は当時、噂の美人だったらしく、義時が彼女に惚れ、頼朝に仲介を頼んだようだ。
というのも、朝宗の一族である比企の尼は頼朝の乳母で、彼が流人生活を送っていた当時、仕送りしていたとされ、いわば恩人。比企朝宗はその比企の尼の子とされ、結果、頼朝は義時から決して離別しない旨の起請文を取り、朝宗の娘に言い含めて娶らせたという。
そして、その娘が生んだのが朝時。彼は祖父・時政の鎌倉名越の邸を継承し、「時政-朝時」という継承が予定されていたようだ。
■北条嫡流家はもちろん幕府まで乗っ取った!?
朝時の異母兄である泰時(義時の長男)も『吾妻鏡』にすべて「江間」の氏名で登場するというから、泰時は江間氏の嫡流であり、朝時が時政の養子になって北条嫡流を継ぐという構想だったのかもしれない。