鎌倉幕府で執権政治を築いて支配も……北条義時「北条氏ではない」疑惑!

日刊大衆

写真はイメージです
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 鎌倉幕府の運営は初代将軍である源頼朝の死後、一部の御家人による合議制に切り替わり、将軍親政はわずか一代で終わったとされる。

 その後、合議を担った御家人や幕府官僚を押さえて政権の中枢を担ったのが北条一族。義時の代に本格的に執権政治が始まり、鎌倉幕府は北条幕府とも呼ばれるが、彼が「北条氏」でなかったとしたら、どうだろう。

 そもそも執権とは何か。鎌倉幕府には政所という組織があり、ここは文字通り政を司り、政務一般を管掌する。元久二年(1205)、義時は父である北条時政が失脚して伊豆で隠居生活を送るようになり、政所の長官である別当に就いた。

 歴史学者の安田元久氏はこれについて、「義時の政所別当が実現した頃から、その地位は将軍後見役としての意味が強調され、執権と呼ばれるようになる」(『北条義時』)とする。

 一方、時政も健仁三年(1203)九月、大江広元とともに政所別当に就いているので、彼を初代執権とする解釈もあるが、幕府の実権を掌握したという意味で、それはやはり、義時とすべきだろう。

 ただ、歴史学者の細川重男氏が『吾妻鏡』から義時に関連した部分を調べたところ、「北条」という氏名の記載が二三例だった一方、「江間」が五九例と圧倒的で、前者の場合も時政や兄の宗時と連記されているばかりか、「同四郎」と書かれたケースも含み、単独で「北条」と記された例はわずか一七例だったという(『執権』)。

 だとすれば、義時は正確には「江間四郎義時」であって、当然のことながら「北条義時」でないことになる。

 では、「江間」とは何か。北条氏発祥の地である伊豆国北条の隣接地には江間という在所に加え、近くには「長崎」もあった。

 鎌倉時代の半ば以降、幕府はその出身である長崎氏が実質的に動かし、その専横ぶりに御家人らが反発したことから滅んだが、長崎氏はもともと北条氏の庶流にあたり、嫡流の御内人(家臣)だった。

 つまり、北条氏の嫡流は兄の宗時であり、四郎義時は長崎氏と同じく、庶氏である「江間」氏の祖。当然、兄が存命なら、その家臣となる運命だったが、兄は石橋山の合戦で討ち死にした。

 ただ、それでも義時は即、北条氏の嫡流とはならなかった。その理由が弟である政範の存在だ。彼は時政と牧の方の間に生まれた末っ子。時政は、頼朝が挙兵する少し前とみられる頃、牧の方を後妻に迎えた。頼朝の妻・政子や義時にとっては継母に当たる。

 頼朝が挙兵したときの時政は四〇代前半で、『愚管抄』に「時正(政)、若き妻をもうけて……」と記された通り、かなり年齢差があったのだろう。時政が今でいう“年の差婚”で迎えた若い妻を愛し、彼女の生んだ子を嫡男にしようとしたことは理解できる。『吾妻鏡』によると、その末っ子は元久元年(1204)一一月に一六歳で亡くなり、官位は従五位下で、左馬権助に任じられていた。

 義時も同年三月に従五位下に叙勲されて相模守に任じられたが、彼は当時、四二歳の壮年期にあり、それまでの活躍が評価されたもの。一方の政範の一六歳という年齢を考えれば破格の扱いと言えるだろう。

 だが、政範が亡くなり、時政が義時をすぐに北条嫡流にしたかといえば、そうでもない。時政は義時の次男である朝時に後を継がせようとしたようだ。

 義時の妻の一人に、源頼朝の紹介で正室に迎えた比企朝宗の娘(姫前という)がいる。彼女は当時、噂の美人だったらしく、義時が彼女に惚れ、頼朝に仲介を頼んだようだ。

 というのも、朝宗の一族である比企の尼は頼朝の乳母で、彼が流人生活を送っていた当時、仕送りしていたとされ、いわば恩人。比企朝宗はその比企の尼の子とされ、結果、頼朝は義時から決して離別しない旨の起請文を取り、朝宗の娘に言い含めて娶らせたという。

 そして、その娘が生んだのが朝時。彼は祖父・時政の鎌倉名越の邸を継承し、「時政-朝時」という継承が予定されていたようだ。

■北条嫡流家はもちろん幕府まで乗っ取った!?

 朝時の異母兄である泰時(義時の長男)も『吾妻鏡』にすべて「江間」の氏名で登場するというから、泰時は江間氏の嫡流であり、朝時が時政の養子になって北条嫡流を継ぐという構想だったのかもしれない。

 しかし、元久二年(一二〇五)閏七月、父・時政が失脚し、朝時に北条嫡流家の家督を継がせようとした者がいなくなって、「江間義時」が「北条義時」になった。

 その義時は「得宗」とも呼ばれる。南北朝時代の史料に「義時が得宗と号す」とあるからだ。

 彼の法名を徳宗といい、主に得宗(徳宗)は、義時の法名だと解釈されている。それを裏付ける証拠はないものの、北条氏の嫡流を「得宗家」といい、「義時-泰時-時氏-経時-時頼-時宗-貞時-高時」と続いた。これに時政を加えて、「北条九代」と呼ぶ場合もある。

 ところで、五代執権となった北条時頼は赤痢にかかって家督をわずか六歳の時宗に譲ったが、六歳の時宗に変わって叔父が一時的に執権に就いた。

 だが、予想に反して時頼は奇跡的に回復し、そののち、再び政治を担い、時頼はこのとき、執権としてではなく、北条嫡流の当主、つまり、得宗としていわゆる院政を敷いた。

 その得宗家に公文所と呼ばれる家政機関があり、もともと御家人として北条氏の同僚だった家柄の者が北条氏の勢力拡大とともに得宗の被官になる者も現われた。

 こうして得宗の家政機関は、鎌倉幕府の中で、“もう一つの幕府”といえる存在になり、少数の寄合で幕府を事実上動かすようになる。これを「得宗専制政治」と呼んだ。

 義時が北条氏の庶流である江間氏の当主に過ぎなかったのだとしたら、その彼が初代執権、かつ得宗家初代となり、北条嫡流家はおろか、幕府まで乗っ取ったといえよう。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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