秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【前編】

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秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【前編】

永らく続いた戦国時代を終わらせ、天下統一を果たした豊臣秀吉。しかしその覇業は、正室・北政所ねねがいたからこそ成し遂げることができました。

北政所ねねの生涯については、さまざまに語られています。今回は、豊臣秀吉の補佐役として豊臣家を支えた彼女の活躍を紹介しましょう。

秀吉の出世は「ねね」との結婚からはじまった

ねねとの結婚が出世のきっかけとなった豊臣秀吉。(写真:秀吉清正記念館)

北政所ねねは、織田信長の家臣・杉原定利の次女として生まれ、1561年頃、藤吉郎と名乗っていた秀吉と結婚します。

当時としては珍しい恋愛結婚といわれ、ねね14歳、秀吉24歳の時でした。

ねねと出会った頃の秀吉は、信長の足軽に過ぎず、土豪とはいえれっきとした武士である杉原家の娘との結婚には、さまざまな問題がありました。

特に、ねねの母・朝日殿は猛反対。しかし、ねねは自分の信念を曲げずに藤吉郎と結ばれたのです。この後、藤吉郎は杉原家の親戚である木下の姓を名乗ることになります。

主君・信長からも可愛がられたねね

ねねとの結婚が、藤吉郎の運命を定めたことは間違いないでしょう。この時期から秀吉は、信長のもとで出世街道を歩んでいきます。もちろん、出世できたのは秀吉の才覚に他なりません。

しかし、秀吉がことさらに信長の注意を引いたのは、やはり、ねねの存在なしには考えられないのです。

ねねに対し、親密感溢れる手紙を残していた織田信長。(写真:ウイキペディア)

ねねを褒め、励ました信長の手紙

後に秀吉が長浜城主となった頃、その女癖の悪さに対し、話を聞きつけた信長は安土城にねねを呼び寄せ、彼女の気持ちを気遣うような手紙を残しています。

この度は、はじめて安土を訪れてくれて嬉しく思う。土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できないほどだ。

そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、何十倍も美しくなっている。
藤吉郎が何か不足を申しているとのことだが、言語同断。けしからぬことだ。

どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。

秀吉が初めて城持ち大名となった時の居城・長浜城跡。(写真:ウイキペディア)

この手紙から察せられるのは、信長のねねに対する溢れるばかりの親密感です。このことからも秀吉の出世には、ねねの存在が不可欠であったことが理解できるでしょう。

ねねの持つ天性の魅力が多くの人を惹きつけた

信長に目をかけられたように、ねねには人の心を惹きつける天性の魅力があったのかもしれません。それを物語るような史実がたくさんあります。

豊臣家中の人々を管理、豊臣政権を内部から支えた

秀吉が大名から天下人へと上り詰めるにつれ、豊臣家には家臣団はもちろん、その他にも多くの人々が属することになります。

その中には、羽柴秀勝、結城秀康など織田家や徳川家をはじめとする諸大名から迎えた多くの養子がいました。

また、親戚の中からも、加藤清正、福島正則など、才能ある子どもを将来の幹部候補生として養育していたのです。

さらに、20人近いと推測される秀吉の側室やその付き人、人質として預かっていた諸大名の妻子など、数えきれないほどの人々が豊臣家におり、その管理はねねに一任されていました。

ねねに育てられ、秀吉を支える武将となった加藤清正。(写真:ウイキペディア)

2代将軍・徳川秀忠は生涯ねねを保護した

人質の中には、江戸幕府2代将軍となる徳川家康の三男秀忠もいました。大切に育てられた秀忠は、ねねに対し生涯にわたり恩義を感じていたようです。

豊臣家が衰退をたどる中、ねねに対し距離をおいた対応をとる家康とは異なり、秀忠は、彼女の所領を保証し、生涯においてその生活を保護しました。

生涯において、ねねを保護した徳川秀忠。(写真:ウイキペディア)

このように、秀吉の側室や女房衆の管理だけでなく、養子や人質の養育も一身に背負うというねねの活動は、譜代の家臣を持たない豊臣家を内部から支える大きな力となっていたのです。

【後編】に続く……

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