軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【中編】
日本三代怨霊に数えられる「崇徳天皇(すとく)」は、歴代の天皇の中でも不運な生涯を送り、恨みを抱えこの世を去ったという。
今回は【前編】に続き、崇徳天皇の生涯をご紹介する。
前回の記事
軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】 傀儡としての崇徳上皇政治の実権を鳥羽法皇に奪われた崇徳上皇だったが、表向きの関係性にわかりやすい対立がなかったともいわれている。
崇徳上皇には、女房として身近に仕えた兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に第一皇子である重仁親王があり、天皇即位の権利を有していた。このことが崇徳上皇にとって希望となっていたのかもしれない。
1155年。近衛天皇が17歳で崩御する。重仁親王は有力な候補となるが、後継天皇を決める会議により、鳥羽法皇の第四皇子であり崇徳上皇の弟である雅仁親王が即位し、後白河天皇となった。
後白河天皇には第一皇子(後の二条天皇)がおり、息子への譲位は規定路線であった。この決定によって崇徳上皇による院政の可能性は事実上絶たれることになる。
崇徳上皇と後白河天皇の対立1156年。鳥羽法皇が崩御。崇徳上皇は病床の鳥羽法皇を見舞ったが、本人に面会を拒否され会うことができなかったという。
前年に即位したばかりの後白河天皇は政治基盤が固まっておらず、後ろ盾となっていた鳥羽法皇の死によって崇徳上皇の復権を恐れた。これ以後、後白河天皇は崇徳上皇を政治の中枢から追い払うための行動を開始する。
亡き近衛天皇の生母であり鳥羽法皇の皇后・得子や、崇徳上皇に聖子を嫁がせたが、子が無かったことで関係がこじれた摂関家の関白・藤原忠通らは後白河天皇に加担し、反崇徳勢力となる。後白河天皇一派は崇徳上皇のクーデター計画を捏造し風聴した。
後白河天皇の勅命によって武士が続々と動員される中、追い詰められた崇徳上皇は、摂関家の後継者問題で兄の忠通と対立していた藤原頼長と組み、半ば強制的に挙兵する。
こうして崇徳上皇派と後白河天皇派の武力衝突は避けられない事態となった。
【後編】へ続く
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