軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【後編】

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軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【後編】

日本三代怨霊に数えられる「崇徳天皇(すとく)」は、悲運の中で生涯を閉じた天皇として知られている。今回は【中編】に続き、配流された末に罪人として命を落とした崇徳天皇の生涯をご紹介する。

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軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】

軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【中編】

保元の乱

1156年7月。後白河天皇派の夜襲によって開戦。戦力は後白河天皇派が圧倒的に有利であったが、崇徳上皇派は寡兵ながら善戦する。しかし、結果的には敗北し、崇徳上皇は出家した後に投降、頼長は戦死した。

戦に勝利した後白河天皇は崇徳上皇の配流を決定。天皇や上皇の配流は約400年ぶりの事であり、後白河天皇派の風説や威圧によって半ば強制的に挙兵させられた崇徳上皇としては屈辱的な結末となった

保元の乱を描いた屏風(Wikipediaより)

讃岐国での軟禁生活

讃岐国(現在の香川県)に配流された崇徳上皇に付き従ったのは、寵妃である兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と僅かな女官だけだったという。

讃岐で軟禁生活となった崇徳上皇は、仏教教典の写本作りに没頭した。完成した写本を朝廷に送ったところ、後白河天皇は崇徳上皇の呪いを恐れて受け取りを拒否。

1164年。配流の地にて46歳で崩御。二度と京の地を踏むことはなかった。朝廷は崇徳上皇の死を無視し、具体的な措置を講じることはなく、あくまでも罪人として扱った。

天狗伝説

崇徳上皇が崩御してから十数年後の1176年。出家して法皇となっていた後白河の側近が相次いで死亡し、京都周辺で動乱が多発すると崇徳上皇の怨霊が囁かれ始める

写本の受け取りを拒否された崇徳上皇は激昂し、呪いの言葉と共に天狗となって朝廷を呪ったという伝説を恐れた後白河法皇。1184年には怨霊鎮魂を目的として、保元の乱の古戦場である春日河原に崇徳院廟を設置して崇徳上皇の霊を弔った。

出生に恵まれず、父と弟から政敵として疎まれた崇徳天皇。身内によって朝廷を追われた本人は、流刑地である讃岐国で何を思い生涯を閉じたのだろうか。

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