秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【後編】

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秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【後編】

永らく続いた戦国時代を終わらせ、天下統一を果たした豊臣秀吉。しかしその覇業は、正室ねね(北政所)がいたからこそ成し遂げることができました。

後編は、豊臣政権下で朝廷、大名、仏教勢力との交渉にねねが振るった手腕と豊臣家滅亡に対し、彼女がとった行動についてご紹介しましょう。

前回の記事はこちら

秀吉だけでは天下取りはできなかった! 豊臣秀吉を支えた名補佐役・北政所ねねの手腕【前編】

豊臣政権を支えた政治的手腕

秀吉の側室や女房衆、諸大名からの人質・養子などの管理を一手に引き受け、豊臣家中を内部から支えた北政所ねね。しかし、彼女の働きはそれだけにとどまりませんでした。

 豊臣家の居城・大坂城の千貫櫓。(写真:T.TAKANO)

豊臣家と朝廷の良好な関係を構築

ねねは、その才覚を政治分野にも発揮しました。秀吉がはじめて城持ち大名となった長浜時代にこんな実話があります。秀吉が中国方面に出陣中、領主である秀吉が出した法令を取消し、新たに自分の名で命令を発しています。

また、秀吉が関白になると、朝廷との関係業務はねねが担当します。低い身分から天下人となった秀吉は、朝廷から与えられた摂関家という権威で、政権運営を進めていました。

彼女は積極的に内裏に足を運び、朝廷との難しい交渉をまとめ上げていきました。豊臣家が摂関家として天皇や公家から認められ、良好な関係を構築したのは、こうした働きが大きかったのです。

 秀吉に豊臣姓を賜った正親町天皇。(写真:ウイキペディア)

大名や仏教勢力の統制にも手腕を発揮

天下統一を果たしたとはいえ、豊臣政権は決して盤石な状態ではありませんでした。江戸幕府のような徹底した大名統制策と直轄領を持たないため、全国には野心満々、あわよくば豊臣家にとって代わろうとする大名たちがいたのです。

秀吉は、摂関家という権威で大名たちを抑え、ねねはトップレディとして交流関係を武器に秀吉の大名統制をサポートしました。伊達政宗、佐竹義宣などの大名たち、前田利家の妻お松などと親密な関係を築いていたことはよく知られています。

また当時、最大の仏教勢力である本願寺に対しては、宗主顕如の妻と連絡を密にし、対立を未然に防ぎました。

豊臣服従後も天下取りの野心を抱いていた伊達政宗。(写真:ウイキペディア) 

自ら豊臣滅亡の危機に動くも…

1598年に秀吉が没した後、ねねは淀殿と協力して秀頼を頂点とする豊臣政権の後見にあたります。しかしその翌年、大阪城を退去し、現在の高台寺を中心とした高台院屋敷に移りました。

 高台院屋敷跡に建つ高台寺。秀吉とねねの霊を弔う霊屋(おたまや)。(写真:ウイキペディア)

ねねのこの動きから、よく言われるのが淀殿の対立問題です。秀頼の母として専制を振るう淀殿と距離をおくようになり、その結果として、衰退をたどる豊臣家を見殺しにしたという説です。

しかし、これは事実とは考えられません。1600年の関ケ原の戦いでは、大津城籠城戦の講和交渉や戦後処理に関与するなど、西軍側と見られる行動をしています。

ただ、ねねのこうした動きは、徳川家康の警戒心を刺激したようです。1614年の大坂冬の陣が迫ると、ねねは大坂に下向し淀殿の説得を試みようとしたとされます。

この時、家康は、ねねの甥にあたる木下利房に命じ、高台院屋敷近くに布陣させ、ねねの動きを阻止しました。

大坂の陣で、なんとしても豊臣家滅亡を目論んでいた家康にとって、ねねが動くことによる影響力は脅威であったのです。

 ねねの大坂城退去後に、豊臣政権で専制を敷いた淀殿。(写真:ウイキペディア)

大坂冬の陣から約半年後の夏の陣で豊臣家は滅びました。この時、ねねは高台院屋敷の高台に建つ望楼から、紅蓮の炎に包まれた大坂城を見届けたと伝わっています。その胸中に去来するものは、どのようなことであったのでしょうか。

2回にわたり、ご愛読をいただきありがとうございました。

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