ミスターから清原和博、イチローまで!日本列島が涙したプロ野球「魂の一打」

日刊大衆

写真はイメージです
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 気迫の全力投球を打ち返す打者入魂のバッティング。全国民を魅了した名選手の極秘エピソードを大公開!

 18.44メートルを挟んで対峙する投手と打者の真剣勝負。今回、そんな野球ならではの醍醐味とも言える忘れられない打席、そして一振りの刹那に凝縮された歴代スターたちの秘められたドラマを振り返ってみたい。

 記憶に残る“魂の一打”と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、やはりミスターだろう。かの「巨人軍は永久に不滅です」の名言も生まれた1974年10月14日の後楽園球場、長嶋茂雄の引退試合では、詰めかけた多くのファンが涙した。

「当初、ダブルヘッダーで組まれた試合ですが、雨天中止で1日順延。対戦相手の中日は、当初から予定の優勝パレード開催のため、主力が不在という状況でした。こうした異例の事態に中日の高木守道らも大いに憤慨。試合前夜には、ミスターの自宅に電話を入れて、非礼を直接、詫びたと言います」(元スポーツ紙記者)

 そして迎えた当日。第1試合こそ通算444本目の本塁打を左翼ポールぎわに叩き込むなど、猛打賞で見せ場を作ったミスターも、第2試合では一転、中前安打1本のみ。これにはマスクを被った相手捕手の金山仙吉も、「まっすぐしか投げませんから」と、思わず声をかけたという。

「結局、最終打席は遊撃への併殺打。それも彼らしい幕切れでした。もっともミスター自身は、1試合目の終了時点で周囲の制止を振りきって、すでに一度、場内を一周しちゃっていましたから、さすがに緊張の糸も切れていたんでしょう。ちなみに、くだんの第1試合では、社会人・東芝府中時代の落合博満も会社を休んで外野席で観戦。のちに“辞めないでくれって俺も叫んだ”と述懐しています」(前同)

 また、この日の第2試合に遊撃手としてスタメン出場していたのが、「長さん」「黒ちゃん」と呼び合う間柄だったV9戦士の一人でもある野球評論家の黒江透修氏だ。黒江氏の自宅には今も、その日の試合終了直後に撮影した“ON”との3ショットが大切に飾られているという。

「ずっと三遊間を組んでいた仲だし、遠征先では部屋も一緒。いいプレーをするたびに“ナイスプレー、黒ちゃん!”って背中を叩かれたりさ。そういう一つ一つが一気に押し寄せてきて、そりゃもう、込み上げてくるものがあったよね。もっとも、あの試合は、実は私にとっても引退試合でね。他の選手には当時まだ言ってなかったし、当の私自身も、長さんの幕引きに、ひたすら感極まっていただけだったけどね(笑)」

■世界新記録、歓喜の瞬間

 一方、ミスターの引退劇から3年後、77年9月3日の後楽園を超満員にしたのが、盟友・王貞治だ。かのハンク・アーロンを抜き去る世界新記録、通算756号の歓喜の瞬間は、ヤクルト戦の第2打席で訪れた。

「ご両親が一塁守備がよく見える三塁側で見守る中、甘く入った鈴木康二朗のシンカーを弾丸ライナーで右翼中段に放り込んだ。球場では、彼のホームインと同時にくす玉が割られて花火が上がり、試合後には同僚の堀内恒夫が運転するブルペンカーで場内を一周。かのベーブ ・ルースを抜いた前年からの盛り上がりもあって、あの日の球場は完全に、お祭り騒ぎでしたよね」(球団OB)

 そんな大偉業を三塁コーチャーズボックスから見届けたのが、当時コーチを務めていた前出の黒江氏だ。ダイヤモンドを回ってきた王とは、「ハイタッチではなく、がっちり握手をした記憶がある」と振り返る。

「記録やタイトルがかかった試合では大抵そうだったけど、ベンチでは“次こそ決めてくれよ”と盛り上がっていたよ。ただ、王ちゃんはいつも冷静なやつだから、打った瞬間は周りのほうが大喜び。私も一度、コーチャーの立場を忘れて、万歳しながらホームまで一緒についていってしまったことがあるからね(笑)。あの日の試合後は、後楽園だったこともあって、チームでは特に何もしなかったんじゃないかな。これが遠征先だったら、宿舎で、ちょっとした宴会にはなったかもしれないけどね」

 “巨人史上最高の助っ人”との呼び声も高いクロマティも忘れ難い。86年10月3日のヤクルト戦で、尾花高夫から放った決勝のグランドスラムは劇的だった。

「クロマティは、前日の試合で頭部に死球を受けたばかりで、近くの慶応病院に入院中だった。そんな彼が病院を抜け出してベンチ入りしたうえ、代打で出てきて満塁弾ですから、もはや漫画の世界です。王さんがわざわざ出迎えに来て、抱き合っていた姿も印象的でした」(前同)

■“お祭り男”が真価を発揮

 続く90年代では、94年の日本シリーズで、“愛憎の盟友”巨人・桑田真澄から、西武・清原和博が放った2打席連続弾が出色だ。

「清原自身、桑田とは3度目の直接対決となったシリーズですが、監督となったミスターとの初顔合わせでもありました。“4勝2敗でウチが勝つ。もう決まっている”といった長嶋節の予言も次々に的中し、4連敗の90年からは一転、終始、巨人が主導権を握りました」(在京スポーツ紙デスク)

 そんな憧れの存在を前に、一人気を吐いたのが、他ならぬ清原だった。森祇晶監督の退任がシリーズ中に報じられるなどチームに不協和音が響く中、球界屈指の“お祭り男”は4本塁打と、その真価を発揮する。

「第1戦では対桑田としては自身初となる先制弾。大量リードを奪われた第5戦でも、バックスクリーンへ意地の2打席連続弾と、常勝軍団の4番らしい貫禄を見せました。ただ、やはり大きかったのはミスターの存在でしょう。当の清原による“巨人に負けたというより、長嶋さんに負けた感じ”なるコメントが、それを象徴していましたね」(前同)

 そして、清原とは何かと比較されることも多かった松井秀喜も欠かせない。とりわけ鮮烈だったのが、日本球界ラストイヤーとなった02年。日本人では、かの落合以来16年ぶりに、大台に乗せた50号アーチだ。

「この年の中継では、放送席の角盈男氏らも“松井が50本打ったらメジャーに行ってしまう”と真顔で解説していたほど、“50本”は一つの鍵となっていた。40本を超えた頃からは、それがより現実味を増して、メディアを賑わせることになりました」(元担当記者)

 そんな松井の“進路”を決定づけた一戦が、10月10日の対ヤクルト最終戦。3回表に、相手先発・藤井秀悟から49号ソロを放つと、同点で迎えた8回裏のチャンスで、打順は再び松井に回ってきた。

「対する五十嵐亮太は当時、売り出し中の豪腕。松井に全球ストレート勝負を挑んだ彼の強心臓ぶりにもシビれましたね。実はあの打席、松井は球威に押されて何度もファウルを打っている。フライになった4球目を捕手の米野智人が見失わなければ、歴史は変わっていたかもしれません(笑)」(前同)

■母の前で最初で最後の本塁打

 松井とともに球界を牽引した大スターと言えば、イチローがいる。09年の第2回WBC、延長戦にもつれ込んだ韓国との決勝で放った殊勲の一打は、今も語り草となっている。

「前回大会で物議を醸したいわゆる“向こう30年”発言もあって、韓国にとってもイチローは因縁の相手。韓国では、一塁が空いている状態で敬遠策を選ばなかったバッテリーに批判が集中しましたが、そこは真っ向勝負を挑んだ彼らを素直に称えるべきですよね。プライドがぶつかり合った極限の対決。試合後のインタビューで出た“ほぼイキかけました”は、そんな緊張感から解放されたイチローの本音だったと思います」(専門誌記者)

 最後に紹介するのは巨人の坂本勇人。昨年11月8日の対ヤクルト、東京ドーム最終戦。コロナ禍に翻弄された球界を照らす、文字通りのハイライトとなったのが、彼の2000本安打達成だ。

「相手先発のロベルト・スアレスから、第1打席でいきなり二塁打。体勢を崩されながらも確実に芯でとらえる、坂本らしい芸術的な当たりでした。コロナの影響で史上最年少記録の更新こそ、かないませんでしたが、遊撃手で、しかも右打者ということを考えても唯一無二の快挙と言えます」(前出のスポーツ紙デスク)

 坂本といえば、ルーキーだった07年5月12日。故郷にも近い姫路でのイースタン・日本ハム戦に出場した際、がん闘病ですでに車イス生活だった母親を球場に招待。それが最初で最後の生観戦となった彼女の前で、人生で初めて「狙って打った」本塁打を贈っている。

 プロの“魂の一打”に、我々ファンは、いつの時代も魅了される――。

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