「五箇条の御誓文」の起草に参画!由利公正を発掘したのは坂本龍馬 (2/3ページ)

日刊大衆

 では公正はいつ、龍馬と出会ったのか。諸説あるが、公正が蟄居させられる四ヶ月ほど前、龍馬が福井を訪ねた際に初めて会ったというのが通説。

 龍馬の福井訪問の目的はカネの無心。当時、龍馬と幕臣・勝海舟は神戸で海軍操練所設立を将軍徳川家茂に認めさせていたが、その開設費用が不足していた。そのため、不足資金を越前藩に負担してもらおうと勝が龍馬を福井に派遣したのだ。

 その後も龍馬、小楠、公正の三人で飲んだという逸話が残っているが、定かではない。ただ、公正は初めて龍馬と会った直後に蟄居となり、他藩の者らとの交流は禁止されたから、二人が会う機会はなかったはずだ。

 慶応二年(1866)六月に公正の蟄居が解かれ、史料で確実に二人が会ったとわかるのが翌慶応三年一〇月三〇日。再び福井で会っている。このときの龍馬の福井訪問の目的はなんだったのか。

 このとき龍馬が土佐藩士・後藤象二郎へ送った手紙の草稿(越行之記というタイトル)から目的を探ってみよう。

 龍馬が福井に着いたのが一〇月二八日。まず龍馬は土佐藩の山内容堂前藩主から春嶽公へ宛てた親書を藩の役人に渡し、同藩大目付に「春嶽公にお会いして国事についてご指導たまわりたい」と申し述べた。

 しかし、「春嶽公は上洛の準備で忙しく直に会うのは難しい」といわれる。ここでまず越前入りの目的が容堂の使いであったことがわかる。福井藩の大目付は春嶽から容堂への返書を渡すと約し、龍馬は公正との面会を求めた。

 つまり、龍馬は容堂の使いで越前入りし、そのついでに公正に会おうと思っていたのだ。

 通説ではこのとき、龍馬と春嶽が会っていたとされてきたが、近年発見された草稿(前出)の存在が、その通説を覆した。

 と同時に、公正の伝記なども合わせて考えると、龍馬は福井で新政府の政策について公正の意見を聞こうとした事実が見える。

■明治安田生命やみずほ銀行の設立にも関与!

 翌一一月一日の朝、龍馬が泊まる旅館「莨屋」を公正が訪ね、その日の深夜零時頃まで話し合った。その間の話題は新政府の財政についてだった。

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