明智光秀が「本能寺の変」を起こした動機とは?野望説から怨恨説まで徹底解説 (2/3ページ)
その延長で、尊王家であった光秀が単独で朝廷を守ろうとしたというのが「朝廷守護説」。一方で、正親町(おおぎまち)天皇への譲位強要など、信長の横暴を危惧して、公家の吉田兼見(かねみ)らが、光秀を引き込んだという「朝廷黒幕説」を唱える人もいる。
「ただ、当時は天皇が譲位して上皇になるというのは普通のことで、信長が譲位を勧めてくれたので喜んだという記録もあり、朝廷黒幕説を否定する人もいる」(河合氏)
近年、最も有力な説として注目されているのが「四国征伐回避説」。平成26年(2014年)に林原美術館(岡山市)から出てきた「石谷家文書(いしがいけもんじょ)」の中に、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、斎藤利三に出した書簡が発見され、内容は元親が信長から厳しい条件を突きつけられて悩んでいることがわかるというもの。信長と長宗我部氏を仲介していたのが光秀で、信長ははじめの頃には、四国を全部支配する許可を元親に与えていたが、突如前言を撤回。面目丸潰れの光秀は、四国征伐を止めさせるために信長を討ったというのだ。河合氏が分析する。
「ただし、四国説はきっかけとなったかもしれないが、その他の動機が複合して、もう信長についていけないという気分が光秀に生まれたと考えるのが自然です」
河合氏は最有力な説として「突発説」を推す。
「本能寺の変のあと、光秀は細川藤孝や筒井順慶などに手紙を出して彼らを味方につけようとするものの、失敗。つまり綿密に根回しや計画を立てずに事を起こしたことは明白です。秀吉や柴田勝家ら重臣が地方征伐に出払って、信長の息子の信忠が京都に入るという情報を得た光秀は、信長父子を葬り去ることができるのはこのタイミングしかないと、突発的に謀叛を起こした、と私は考えています」
このほか、朝廷、幕府、秀吉や家康が裏で関与して、光秀の謀叛をそそのかしたという「黒幕説」が数多く存在する。ただし、いずれも確かな史料がなく、「信長がいなくなることで、誰が得をするのか」という命題で立てられた仮説の域を出ない。
「京都を追われ毛利氏を頼って、福山の鞆ともの浦に逃れ鞆幕府を開いた足利義昭は、全国の大名に信長を弱体化させる命令を出している。