23回忌ジャイアント馬場「貴女と僕とは身分が違いすぎる」今明かされる妻へのラブレター
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プロレスという枠組みを超え、“馬場さん”の愛称で多くの日本人に愛されたジャイアント馬場。“世界の巨人”が亡くなり、すでに22年の月日が流れた。
今月5日、その馬場にまつわる“驚きの新発見”が書かれた書籍が発売された。本のタイトルは『誰も知らなかったジャイアント馬場』(朝日新聞出版)。同書は『週刊プロレス』元全日本プロレス担当記者で、本人からの信頼も厚かった市瀬英俊氏が執筆している。『週刊大衆』は、その市瀬氏に寄稿を依頼。「手紙」を通じて我々の知らない馬場さんが、時を超えて今、蘇る。
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さる2月4日、東京・後楽園ホールで「ジャイアント馬場23回忌追善興行」が開催された。
209センチの長身を誇り、生涯現役を貫いたプロレスラー・ジャイアント馬場がこの世を去ったのは1999年1月31日のこと。すると、翌年の一周忌追悼興行に始まって、三回忌、七回忌、そして十七回忌のタイミングで故人を偲ぶ大会がおこなわれてきた。ここまで手厚く、それも長期にわたって祈りの対象になってきたプロレスラーが他にいるだろうか。
「ジャイアント馬場を風化させてはならない」
原点はひとりの女性の執念にも似た鋼の心だった。その女性とは。妻として「世界の巨人」をサポートし続けた馬場元子である。元子の名が広く知れ渡ったのは馬場の死後。全日本プロレスの新社長となった三沢光晴と団体の運営方針を巡って対立し、ついには団体分裂という非常事態を招いたことに起因する。
2000年代の初頭。「馬場元子イコール女帝」がプロレス界におけるパブリックイメージとなった。
三沢らが去り戦力は手薄になったが、新たに社長に就任した元子は新日本プロレスとの対抗戦に活路を見出すなど反転攻勢。2001年1月28日には馬場の三回忌追悼興行を東京ドームで開催、5万8700人の集客に成功した。馬場の妻としての意地だった。
その元子も2018年4月14日、馬場のもとへと旅立っていった。
■馬場と元子、愛の手紙
ふたりの遺品の中に膨大な量の手紙があった。主に1960年代から70年代にかけて、馬場と元子が交わした手紙だった。その数、1000通を超える。
1955年3月。馬場17歳、元子15歳の時にふたりは出会った。前年、高校2年の秋に読売巨人軍にスカウトされ、プロ野球選手となった馬場は兵庫県明石市での春季キャンプ中に後援者の家に招かれた。それが元子の家だったのだ。
本格的な交際が始まったのは1964年4月。巨人軍を5年で解雇され、プロレスラーに転向した馬場は、2度の海外武者修行を経てトップレスラーへと駆け上がる。そして、明石を訪れ、元子と再会すると、7月にはふたりの間で早くも結婚話が持ち上がった。
そういう方向で交際が進んでいることを元子は両親に打ち明けた。その結果を馬場への手紙に書いた。
〈二人共、笑いながら、ダメだと云います。笑うと云っても母は泣き笑いです。母の言葉を借りれば、汗が吹き出た、と云っていました。父は意外と平気な顔をして居りましたが、きっと母以上に困ったと思います〉
馬場は返事を書いた。
〈貴女も大変苦しんで居られる様ですね。やはり現実にだめと云われたらショックでしょう。僕も貴女から電話や手紙でその様に知らされた時は、その様に云われる事は最初から知って居ても大きなショックでした。(中略)僕は何時も思って居ます。貴女と僕とは身分が違いすぎる〉
ふたりの結婚に強く反対したのは、元子の母だった。元子の家は、巨人軍の選手を毎年招待できるほどのいわゆる良家。母は互いの家同士、釣り合いの取れた結婚を元子に望んでいた。
その意味で馬場は完全に「ノー」だった。野蛮で危険なプロレスラーという職業。悲しいことだが、加えて馬場の外見、容貌にも元子の母は戸惑いを覚えていた。「巨人症」ゆえの長身。誰が悪いわけでもない、どうにもならない運命が障壁となった。
現在発売中の『週刊大衆』3月1・8日号では、馬場と元子が貫いた愛の軌跡を掲載している。