大晦日・お正月・節分・お盆をつらぬく日本文化の「根っこ」とは?【前編】

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大晦日・お正月・節分・お盆をつらぬく日本文化の「根っこ」とは?【前編】

実は「鎮魂」「ケガレ祓い」の日だった大晦日

大晦日(おおみそか)の過ごし方といえば、やはり紅白歌合戦を観る、年越しそばを食べる、カウントダウンに出向く、初詣の準備をする、正月料理を作る……などが定番ですね。

だけど、そんな大晦日も、ひとたびルーツを辿ってみると思いも寄らない歴史を持っていることが分かります。しかもそれは大晦日にとどまらず、お正月・節分・そしてお盆に至るまで、根っこですべてつながっていたのです。

今回は、日本文化の奥底にひそむ、その「根っこ」を探ってみたいと思います。

昔の日本では、大晦日は「生命が危機を迎える日」とされていました。

この日は十二月の末、冬真っただ中。それは地上の草木が枯れ、太陽の光が弱まる季節です。人間の魂もそれに従って衰弱し、病気にかかりやすくなります。病に対する薬や治療法が確立されていない昔の人にとって、それは生死に関わる問題でした。

では、そんな衰弱していく魂に、再び命を吹き込むにはどうすればいいか――。この問題に与えられた解答が、「鎮魂の儀式を行う」というものでした。

現代では、鎮魂と言えば亡くなった人の霊や魂を鎮めるイメージですが、ここでの鎮魂とは、儀式を行うことによって衰弱の原因となる邪気やケガレを祓い、生きている人の魂を清浄にして再び生命力を取り戻すことを言います。

こうした儀式の中で、今も残る代表的なものは、大晦日に全国の神社で執り行われる大祓(おおはらい)です。これは日本の神道儀式の一つで、天下万民のツミ・ケガレを祓うもの。大晦日だけではなく、六月末にも行われます。

また、大晦日に百八の鐘をついて煩悩を洗い清める「除夜の鐘」などは、こうしたケガレ祓いの一例です。

年末大掃除も「カミ」を迎えるための儀式

さて、しかし昔の庶民のすべてが、いちいち大祓のような大げさな儀式を行っていたわけではありません。民間のレベルでは、邪気やケガレを祓って新たな生命を得るために、別の形での「儀式」を行っていました。

その儀式とは難しいものではなく、「身を慎んで静かに過ごす」というものでした。昔は年明けと同時に一つ年齢を重ねると考えられており(数え年)、大晦日には夜の訪れと同時に食事を採り、後は家にこもって静かに休んでいました。

そして深夜に年が改まったところで、一年のケガレ・邪気などが祓われて、衰弱していた魂に新たな命が吹き込まれます。生命の新旧交代が起きるのです。

今でも、大晦日の夜に一家の主人が氏神の社にこもる習慣が残っている地方があるそうです。おそらくこうした「身を慎んで静かに過ごす」習慣の名残でしょう。

さて、ところで民俗学者の折口信夫は、日本の祭りというのは、この「年の終わりの鎮魂の祭り」を中心にして発展したものだと考えたそうです。

彼によると、古代の人々にとって、大晦日にケガレが払われて正月がやってくるというステップは、単なる自然現象ではありませんでした。それは、異界から訪れたカミ(神)がもたらしてくれる祝福でした。

そうしたカミが家の主人に祝福を与え、翌年の魂の復活・蘇生を保証し、同時に新年の農作物の豊穣をも約束してくれたのです。そもそもそれが、冬に行われる祭りというものの原型でした。

ですので、人々は大晦日の深夜(除夜)になると、異界からのカミの訪れを待ち、身を慎んで過ごしたのです。

ケガレを払うだけではなく「身綺麗にして新年を迎える」という考え方は、すす払いや年末の大掃除の習慣にも引き継がれていますね。

先ほどは全国の神社で行われる大祓をご紹介しましたが、大晦日に邪気やケガレを積極的に祓う儀式の名残は、私たちにとってごく身近な習俗の中にもあります。

それは、節分の豆まきです。

「節分の豆まき」も大晦日とルーツは同じ

節分の豆まきと言えば、鬼のお面をつけた人に豆をぶつけたり、部屋に豆をまいたり歳の数だけそれを食べたり……というイベントが一番に思い浮かびますが、あれはもともとは大晦日の行事でした。そして、そのルーツは千年以上前の中国に求めることができます。

中国では、唐の時代以降に、四季の変わり目ごとに邪霊や悪鬼が災いをもたらすと信じられるようになりました。それを追い払う宗教儀礼が追儺(ついな)の儀式という形で日本に伝わりました。

これは、日本では文武天皇の頃から行われたようです。『続日本紀』には、706(慶雲3)年に疫病が流行して多くの百姓が亡くなったため、追儺の儀礼を行ったと記されているそうです。これ以降、宮廷では毎年大晦日に実施されるようになりました。こうした儀式の様子は『蜻蛉日記』にも記されています。

Wikipedia『追儺』吉田神社での追儺 『都年中行事画帖』(1928年)より

この追儺の儀式が、節分の豆まきの原型です。大晦日のケガレ払いも、節分の豆まきも、もともとは同じ根っこから生じたものだったのです。

追儺の儀式が節分の夜の行事となったのは、平安時代以降のことです。

なぜそうなったのかというと、季節の変わり目において生命が危機的な状況に晒される点が、大晦日も節分も同じだと考えられたからです。

節分の時期は季節の分かれ目でまだまだ寒く、体調を崩しやすいですよね。ちょっとした風邪が大病につながり、深刻な事態に陥ることもあります。ですから、追儺の儀式をこの時期にも行うようになったのでしょう。それが民間にも広まっていったのだと思われます。

節分の豆まきでは「鬼は外、福は内」というかけ声が定番ですが、もともとは「鬼」という言葉も「隠(オン)」に語源があり、病や災害などの不幸を表していました。人々は、大晦日のみならず節分の時期にも、病魔を鬼と見立てて追い払うようになったのです。

ちなみに、追儺の儀式そのものは平安時代から存在すると書きましたが、鬼を追い払うために豆をまくようになったのは室町時代からだそうです。なぜ豆なのかというと、「豆」は「魔滅(マメ)」だからです。駄洒落ですね。言霊の力を信じていた日本人ならではのおまじないです。

また、神事にも使われていた「五穀」(米、麦、稗、粟、豆)のひとつである豆は、農耕民族である日本人の生活に欠かせないものでした。これには米と並んで特に神聖な力が宿っていると考えられていたのです。

さて、以上のことから、大晦日という日が、日本人にとっては邪気やケガレなどの悪いものを祓うための節目の日だったことが分かると思います。そこに底流している日本人の精神は、節分の時期にまで拡がりを持つものでした。

【後編】では、大晦日・節分に続いて、「お正月」のルーツについてさらに詳しく説明したいと思います。

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