武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【後編】 (2/5ページ)

Japaaan

こうした状況を見ていた信玄は、駿河侵攻を決意します。しかし、今川義元の娘を正室に迎えていた義信は、妻の実家を攻めることに承服できなかったのです。

ここにおいて、義信は側近の飯富虎昌(信玄重臣で義信傅役)と図り、信玄暗殺を企てました。信玄はこの動きに素早く反応。義信を廃嫡のうえ幽閉し、虎昌ら側近を根こそぎ処断したのでした。

実はこの事件、信玄にとっては憂慮すべきものでした。武田家臣団が、反今川派(信玄派)と親今川派(義信派)に分裂、派閥抗争に発展してしまったのです。

家臣団の分裂こそ、信玄が一番恐れることでした。それ故に、武勇・知略に優れ、将来を期待された嫡男と譜代の重臣を処断したのでした。

義信廃嫡の後、信玄は、生島足島神社において、家臣たちに忠誠を誓わせる起請文を奉納させます。これは、事件で生じた家臣団の動揺を鎮めることと、団結の引き締めを図ったに違いありません。

苦難を乗り越え戦国最強軍団に仕上げる

 信玄の晩年は天下布武を目指す織田信長との戦いだった。(写真:ウイキペディア)

1570(永禄13)年、信玄は今川氏真を追い、駿河を手中に収めます。

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