戦国最強の騎馬隊。武田軍の「赤備え」を組織した兄弟武将【後編】

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戦国最強の騎馬隊。武田軍の「赤備え」を組織した兄弟武将【後編】

戦国期の日本には「赤備え」と呼ばれる真紅の甲冑を纏った精鋭部隊が存在した。

【後編】では、赤揃えの先駆けとして武田騎馬隊を組織し、後世の武将たちにも影響を与えた兄弟についてご紹介する。

前編の記事はこちら

戦国最強の騎馬隊。武田軍の「赤備え」を組織した兄弟武将【前編】

飯富虎昌(おぶ とらまさ)

甲越勇將傳武田家廾四將:飫富兵部少輔虎昌(歌川国芳作)Wikipediaより

「赤備え」部隊の先駆けと考えられている人物である。甲斐源氏の一族であり、信玄の父である信虎の時代から甲斐武田氏に仕えた。1530年代には関東の北条氏や、信濃の諏訪氏などとの戦で武功を挙げ、寡兵の部隊を指揮し大軍を破るなど多くの武勇が伝わっている。
1541年。信虎の嫡男である晴信(後の武田信玄)を擁立することに成功。以後は信玄に宿老として仕えた。

「赤備え」部隊の組織に関する正確な時期はわかっていないが、1565年に虎昌が没していることから、少なくともそれ以前には武田軍の部隊として機能していたとされる。

部隊は騎馬を中心とする少数で組織され、自領の相続が叶わなかった各家の次男以下の者で編成された。当初、軍の中での位置付けとしては主に先駆け隊(切り込み部隊)であり、真紅の甲冑に身を包むことで敵の目を引き、武功を挙げることを目的としたという。

山県昌景(やまがた まさかげ)

山県昌景(Wikipediaより)

飯富虎昌の弟(他説あり)であり、信玄の元で武田四天王の一人とされた中心家臣である。兄である虎昌に勝るとも劣らない武勇を持つ人物で、信濃侵攻などの戦功により信玄の近習から侍大将へ抜擢され、1563年には譜代家老へ列せられた。

1565年。兄である虎昌が謀反を計画すると、身内でありながら信玄に兄の裏切りを密告したという。虎昌が謀反の責任を取る形で自害すると、兄から「赤備え」部隊を引き継いだ

昌景の赤備え部隊は武田軍の中でも最強の呼び声が高く、諸大名にも名声が轟いたという。赤備え部隊が精鋭部隊として認識されるようになったのは、昌景の指揮した「山県隊」の影響が強いと考えられている。

昌景自身は1575年の長篠の戦いで戦死した。虎昌が組織し、昌景が完成させた「赤備え」部隊は彼らの死後、後世の武将たちに引き継がれていく。

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