戦国時代の転機となった合戦「桶狭間の戦い」の合戦場は2ヶ所あった
1560年5月16日、2万5000人の大軍を率いる今川義元は、わずか2000人の織田勢に討たれて敗走します。
この今川家滅亡のきっかけとなったのが、後の世にいう「桶狭間の戦い」です。
桶狭間の古戦場といわれる場所は、現在の愛知県豊明市栄町南館という場所で、石碑も建てられています。ところが、実はもう一か所、桶狭間古戦場とされる場所が存在しているのです。
その場所は同じ愛知県の名古屋市緑区有松町大字ヒロツボの古戦場で、こちらにも同じように石碑が立っています。実はこの二つのエリア、隣り合わせでもないのです。
離れた距離にあるこの二カ所が一つの戦いの古戦場とされているのはどうしてなんでしょうか。
それは、合戦当日の今川軍の動きを見ればわかります。
沓掛城を出発した今川軍は、大高城を目指して進軍していました。ところが、途中の沓掛城と大高城のちょうど真ん中に当たる桶狭間山で休憩をしていた時、織田信長軍からの奇襲を受けたのでした。
不意をつかれた今川軍のうち、ある者は来た道を戻って沓掛城のほうへ、ある者はこれから向かうはずだった大高城へ逃げていきました。つまり、今川軍は二つのグループに分かれ、それぞれを織田軍が追撃したということになります。
そんなわけで、桶狭間の古戦場跡は二カ所存在することになったのです。
このようなことは、実際その土地を歩き、自身の足で確かめなければしっくりきません。やはり、歴史を考えるときは自分の足で稼ぎながら考えていかなければなりませんんね。
是非とも二カ所の桶狭間古戦場巡り、コンプしてくださいね。
参考
渡辺 文雄『桶狭間合戦の真相―中島砦発にして用意周到・機略に満ちた奇襲戦だった 』(2012 郁朋社) 福山 隆 『最新の軍事理論で読み解く「桶狭間の戦い」 – 元陸将が検証する、信長勝利の驚くべき戦略 』 (2016 ワニブックスPLUS新書)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan