絆を育む「首の血の酒」…戦国時代、三河武士を心服せしめた松平清康のエピソード

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絆を育む「首の血の酒」…戦国時代、三河武士を心服せしめた松平清康のエピソード

世に下剋上の嵐が吹き荒れ、血で血を洗う戦いが繰り広げられた戦国時代。時に主君さえ手にかける裏切りと謀略の渦巻く乱世にあって、犬にも喩えられる忠義の篤さを誇ったのが三河(みかわ。現:愛知県東部)武士です。

松平(まつだいら。後の徳川)家に代々仕え、やがて徳川家康(とくがわ いえやす)が天下を統べる柱石となった彼らですが、その主従の絆は一朝一夕に培われたものではありません。

今回は、そんな三河武士たちと松平(徳川)家の絆を育んだ、一つのエピソードを紹介したいと思います。

御定器に酌まれた「首の血の酒」

時は第7代当主・松平清康(まつだいら きよやす。永正8・1511年生~天文4・1535年没)のころ。

家康の祖父・松平清康。Wikipediaより。

ある日、家臣たちと食卓を囲んでいた清康は、自分の汁椀を飲み干すと、それを持ってみんなに呼びかけました。

「おい、これで酒を飲め」

それを聞いて家臣たちは驚きました。主君の御定器(ごじょうき。専用の食器)なんて、手にするだけでも畏れ多いのに、ましてやそれで酒を飲むなど……皆が恐縮していると、清康は不興げに言います。

「……何じゃ、わしとの間接キスは嫌か(苦笑)」

「いえ(そりゃまぁ微妙ですけど)、決してそういう事ではなく、あまりに君臣のけじめはしっかりつけられませんと……」

いよいよ平伏する家臣たちに、清康は笑って言いました。

「そんなことにこだわっていたのか。確かにわしは主君で、そなたらは家臣じゃが、それはたまたまそう生まれ合わせただけで、身分が人間の貴賤を決める訳ではない。ましてや古来『侍に上がり下がりはなきものなり』と言う通り、我ら同じく武士なれば、共に背中を預け合う仲間ではないか……遠慮は無用ぞ、さぁ飲め飲め!」

「ははあ……」

現代的な感覚だと、少しアルハラ&パワハラっぽくも思えてしまいますが、この心意気に感動した家臣たちは、清康じきじきのお酌によって一人三杯も飲んだ(飲まされた?)ということです。

さて、そんな事があった帰り道、家臣たちは口々に話し合ったと言います。

清康の酌で酒を飲んだ松平家臣(イメージ)。

「しかし驚いたな、まさか御屋形様のお酌と御定器で酒をいただこうとは……」

「どれほど宝物を積まれたとて、此度の御恩には替えがたい!」

あの酒は、我らが首の血じゃ。命を懸けて奉公する、誓いの酒じゃ」

「そうじゃ。御屋形様の深き御情(おんなさけ)に報いてこそ、三河武士の面目であり、冥途のよき土産となろうぞ!」

それからと言うもの、大いに奮起した家臣たちが清康と共に戦ったのはもちろん、天文4年(1535年)12月5日に清康が暗殺されて(森山崩れ)松平家が没落した後も、その再興に尽力したのですが、そのエピソードはまた別の機会に。

部下を「戦わせる」か、共に「戦う」か

最後に、私事で恐縮ながら、海上自衛官時代にある上官の話を聞いた時、このエピソードを思い出しました。

「お前は海士(≒兵士)で俺は幹部だが、別にお前が卑しい訳でも俺が尊い訳でもなく、ただそれぞれ役目が違うだけで、共に日本の平和と独立を守る目的は一緒だ」

常に苦楽を共に闘い抜いた家康と三河武士たち。歌川芳虎「東照宮十六善神之肖像連座の図」より。

上官は部下を「戦わせる」のではなく、手段こそ違えど、部下と共に「戦っている」……その意識があったからこそ、清康は頑固な三河武士たちを心服せしめ、その資質は孫の竹千代(たけちよ。後の家康)にも受け継がれていったようです。

※参考文献:
小林賢章 訳『現代語訳 三河物語』ちくま学芸文庫、2018年3月
菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、2004年10月

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