戦国時代〜江戸時代、城下町「川越」は為政者たちにどれほど重要視されていたのか? (2/3ページ)

Japaaan

仙波東照宮は、徳川家康の遺骸を久能山から日光に遷す道中に川越を経由した際、天海が同寺にて四日間にもわたる大法要を行い、その後に家康の遺柩止留の跡として家康公の像(高さ八寸八分)を作り大堂に祀ったのが始まりです。

また、現在の喜多院の多くの施設は寛永16(1639)年につくられたものですが、これらは前年1月の川越大火により、山門を除き焼失してしまった堂宇を再建したものです。当時の江戸幕府の将軍は、徳川家光でしたが、家光は喜多院を再建するにあたって、江戸城紅葉山にあった慶長期の建物を解体して川越に移築しました。

喜多院 慈眼堂

現在の喜多院の境内にある庫裏、書院、客殿は、そのとき江戸から新河岸川を伝って運び込んだものです。このときに現在、客殿にある徳川家光誕生の間といわれている十二畳半の部屋も移築されました。焼失から再建までのこのスピード感、家光がいかにこの寺院を大切に考えていたかということがわかります。

川越が為政者たちによって重要視されていた理由のひとつに、水運の便の良さがあります。この地域は、荒川沿岸を押さえる要所だったのです。川越の町の発展を考えるとき、新河岸川の水運のことは切り離して考えることができないのです。

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