戦国時代〜江戸時代、城下町「川越」は為政者たちにどれほど重要視されていたのか?
東京の周辺には、ユニークで興味深い城下町がいくつか残っています。
これらの地域の城下町はいずれも、幕府が頼りしていている親藩、譜代の大名たちが小藩をおいた地域です。
その一つが「川越」。川越は「小江戸」と呼ばれる古い町の様子が残る地域で、関東平野の外れに位置しています。近年、開発によって現代風の住宅地が増えてしまいましたが、この城下町の歴史を知ることで、当時この地域がどれだけ重要視されていたのかということがわかります。
そもそもこの地域は戦国時代には関東地方を抑える要地とされていました。この川越の地を巡って、北条氏康と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏ら三者との間で繰り広げられたこともあります。
また、川越を代表する観光地に五百羅漢の石像群で知られる喜多院があります。この寺院は関東の天台宗の総本山で、徳川家康の関東入りの際、家康の補佐をしていた天海僧上が来訪していました。
喜多院には、徳川家康を祀る仙波東照宮がありますが、同東照宮は久能山、日光と並んで三大東照宮とされています。
仙波東照宮は、徳川家康の遺骸を久能山から日光に遷す道中に川越を経由した際、天海が同寺にて四日間にもわたる大法要を行い、その後に家康の遺柩止留の跡として家康公の像(高さ八寸八分)を作り大堂に祀ったのが始まりです。
また、現在の喜多院の多くの施設は寛永16(1639)年につくられたものですが、これらは前年1月の川越大火により、山門を除き焼失してしまった堂宇を再建したものです。当時の江戸幕府の将軍は、徳川家光でしたが、家光は喜多院を再建するにあたって、江戸城紅葉山にあった慶長期の建物を解体して川越に移築しました。
現在の喜多院の境内にある庫裏、書院、客殿は、そのとき江戸から新河岸川を伝って運び込んだものです。このときに現在、客殿にある徳川家光誕生の間といわれている十二畳半の部屋も移築されました。焼失から再建までのこのスピード感、家光がいかにこの寺院を大切に考えていたかということがわかります。
川越が為政者たちによって重要視されていた理由のひとつに、水運の便の良さがあります。この地域は、荒川沿岸を押さえる要所だったのです。川越の町の発展を考えるとき、新河岸川の水運のことは切り離して考えることができないのです。
参考
『川崎大師喜多院』「創建と歴史」 川越八幡宮公式サイト『ようこそ川越へ』「日本三大東照宮」 『日本地図から歴史を読む方法―都市・街道・港・城跡…意外な日本史が見えてくる』武光 誠(1998 KAWADE夢新書)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

