すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード

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すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード

戦国時代、守護代・細川(ほそかわ)氏の衰退によって台頭し、土佐国(現:高知県)に割拠していた土佐七雄(とさしちゆう。七氏の有力豪族)。

安芸(あき。安芸郡)氏、大平(おおひら。高岡郡)氏、吉良(きら。吾川郡)氏、香宗我部(こうそかべ。香美郡4,000貫)氏、長宗我部(ちょうそかべ。長岡郡)氏、津野(つの。高岡郡)氏、本山(もとやま。長岡郡)氏の七氏(※)が土佐国の覇権を競っていましたが、最終的に長宗我部氏がライバルたちを制し、土佐国を統一したことは広く知られる通りです。

土佐国、ひいては四国統一を果たした長宗我部元親。Wikipediaより。

(※)香宗我部氏を山田(やまだ。香美郡)氏にかえて数える説もあります。

次々と長宗我部氏の膝下に屈していった豪族たちですが、今回はその一つ・香宗我部氏のエピソードを紹介したいと思います。

平安時代から続く甲斐源氏の名族

香宗我部氏は甲斐(現:山梨県)源氏の流れを汲み、平安時代末期に現地へやってきた名族でした。

当時の当主であった香宗我部親秀(ちかひで。右衛門尉)は、なおも勢力を伸ばすべく奮闘していましたが、大永6年(1526年)に安芸氏を攻めた時に大敗、嫡男の香宗我部秀義(ひでよし)を討死させてしまいます。

果敢に戦うも、志半ばに散華した秀義ら(イメージ)。

「やむを得まい……孫十郎(まごじゅうろう)よ、そなたを養子に迎えよう」

一人息子を喪った親秀は、年齢の離れた(※)弟・香宗我部孫十郎秀通(ひでみち。17歳)に家督を継がせて隠居。秀通を補佐しながら、新体制で御家の立て直しを図りました。

(※)親秀の生年=年齢は不明ですが、この時点で「もう子供は期待できない」年齢であったから、弟の孫十郎を養子に迎えたものと考えられます。

その甲斐あってか香宗我部家は乱世を生き延び、天文13年(1544年)には秀通に嫡男の権之助(ごんのすけ。元服して秀長⇒泰吉)、続いて新助(しんすけ。元服して秀政)を授かり、これでひとまず御家も安泰かと思われましたが……。

長宗我部家からの婿養子を巡り、骨肉の争い

「何と……養父上、いや兄上!お気は確かか!」

時は弘治2年(1556年)、親秀は長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)の三男・親泰(ちかやす。弥七郎)を婿養子に迎えることを提案したのでした。

「孫十郎よ、そなたの娘を弥七郎殿に娶(めと)らせよ。弥七郎殿は英明と聞き及ぶゆえ、必ずや香宗我部の家を盛り返してくれよう」

「……それは我が嫡男・権之助に対する侮辱と見てよろしいか?みだりに弥七郎を迎えれば遠からず御家騒動の因となりかねず、また長宗我部の威勢を恐れてのことかと笑われましょうぞ!」

そもそも、自家の命運を他家からの養子に恃むなど愚の骨頂、武門の恥辱と憤る秀通を、なおも親秀は諭します。

「……表向きはそうも見えようが、この伝手をもって逆に長宗我部を乗っ取るのじゃ」

「ご自身で『弥七郎が英明』だの云々と申されたのをお忘れか……彼奴(きゃつ)はそう容易く操れる虚(うつ)けにはございませぬ。どうか、ご再考召され!」

議論は平行線をたどったまま結論に至らず、やがて骨肉の争いが勃発。このままでは香宗我部家が滅びてしまう……しびれを切らした親秀は10月21日、ついに秀通を暗殺してしまいました。

孫十郎の暗殺(イメージ)。

(孫十郎よ、許せ……これも香宗我部の為ぞ!)

「おのれ兄上……権之助、新助、そなたらだけでも逃げ延びよ……!」

「「父上……っ!」」

権之助と新助は母方の実家である細川定輔(ほそかわ さだすけ。宗桃)に保護されて事なきを得ます。

かくして男子のいなくなった香宗我部家は弘治4年(1558年)、弥七郎を婿養子にとってその家督を継がせ、親秀はその補佐を務めたのでした。

伯父と和解して、香宗我部家を盛り立てる

さて、父・秀通を殺され、身を潜めていた権之助と新助は、やがて元服して香宗我部秀長(ひでなが)、香宗我部秀政(ひでまさ)と改名。苦難の日々を送っていたところへ、父の仇である伯父・親秀から便りがありました。

「父上の事については、本当に申し訳なかった。これも香宗我部の家を思ってのことゆえ、どうか堪忍してもらいたい。家督を継いだ弥七郎殿は見込み通りに英明で、主君となった長宗我部家の右腕として大いに辣腕を奮っている。どうかそなたたちも戻ってきて、弥七郎殿を補佐してもらいたい……(大意)」

ただし、今や弥七郎が継いだ香宗我部を称するのは何かと不都合なので、親秀の隠居料(領地)である中山田(なかやまだ。現:高知県香南市)が譲られ、その地名を称することに。

また、香宗我部≒長宗我部家に臣従する証として、秀長は弥七郎の諱(いみな。実名)である親泰から「泰」の文字を拝領して中山田泰吉(なかやまだ やすよし)と改名。父と共に香宗我部家を盛り立てたのでした。

苦難を耐え忍び、香宗我部家を盛り立てた中山田泰吉(イメージ)。

本来なら自分がその座に就くはずだった香宗我部家に仕える胸中は察するにあまりありますが、すべては御家のためと覚悟して、忠勤に励んだ泰吉の潔さが胸を打ちます。

その後、泰吉は親泰とその嫡男・香宗我部貞親(さだちか)の2代にわたって仕えますが、関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)で主君の長宗我部家と共に香宗我部家も改易(かいえき。所領没収)されると、新たに土佐国を治めることになった山内一豊(やまのうち かずとよ)に仕えました。

伝えるところによると泰吉は寡黙で礼儀正しく、知勇を兼ね備えていたため人々から敬愛されており、そんな泰吉が従うのなら、と中山田の領民たちは、よそ者である新領主・山内家にも(比較的)素直に従ったということです。

エピローグ

泰吉は元和5年(1619年)1月22日に76歳で天寿をまっとうしますが、彼らの子孫は代々栄え、土佐藩士として活躍するのでした。

そして後世、子孫の一人である陸軍軍人・武田秀山(たけだ ひでのぶ)によって顕彰碑(香宗我部秀通公碑。高知県香南市)が建立され、彼らの遺業を現代に伝えています。

※参考文献:
山本大『長宗我部元親』吉川弘文館、1987年12月
川口素生『戦国名物家臣列伝』学研M文庫、2008年6月

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