松村沙友理の個人PV「うそつき」が見せるアイドルの「嘘/本当」の無効化【乃木坂46「個人PVという実験場」第17回2/5】
乃木坂46「個人PVという実験場」
第17回 ドキュメンタリーとアイドルの間 2/5
■個人PVをめぐる個人PV
乃木坂46の22枚目シングル『帰り道は遠回りしたくなる』に収録された秋元真夏の個人PV「タイムトラベラー」は、秋元がフィクションの人物と「乃木坂46の秋元真夏」自身との双方を演じてみせるものだった(https://taishu.jp/articles/-/92855)。この「タイムトラベラー」では、“個人PVの監督を依頼されたディレクター”をメインキャラクターに、彼が個人PVのアイデア枯渇に苦しむ様子を物語の導入にした、メタ的な構造が採用されている。
はからずもこの22枚目シングル収録の個人PVには、同作以外にも“個人PVを企画する過程”をモチーフにした作品が存在する。その作品が提示するのは、単に個人PVというコンテンツ自体の俯瞰だけでなく、アイドルに対してしばしば差し向けられがちな、虚/実をめぐるステレオタイプを捉え返すような視座である。
https://www.youtube.com/watch?v=SJR-ZANC9rc
(※松村沙友理個人PV「うそつき」予告編)
松村沙友理の個人PV「うそつき」(監督:泉田岳)の舞台設定は、松村とディレクターとが個人PVの企画について打ち合わせている現場である。「良いものを作ろう」と意気込みを語るディレクターだが、その言葉とは裏腹に彼が提案するプランはことごとく、過去に他のメンバーの個人PVで企画されてきた既視感のあるものばかり。ディレクターや同席するカメラマンらの信用できなさに業を煮やした松村が、相手の嘘を指摘するところから物語が動き出す。
逆上したディレクターと松村は売り言葉に買い言葉で口論を始め、互いの細かな嘘を逐一突っ込み合う展開に発展。傍にいるマネージャーも巻き込みながら、コミカルな会話劇が繰り広げられる。
■アイドルにおける「嘘」と「本当」
口論の最中、ディレクターは不意に「これだからアイドルは嘘ばっかり」という、ほとんど定型的なアイドルへの偏見を口にする。ここから、本作は単にハイテンポのコメディにとどまらない、複雑な側面を見せ始める。
アイドルあるいは芸能人の振る舞いを、「嘘/本当」や「表/裏」といった単純な二元論で捉えようとすることについて、その浅薄さを言葉で指摘することはもちろん可能である。
現実とは、人々が常に何がしかのロールを上演することによって、いわば演劇的に作られていく。また、「表/裏」の境界が曖昧になり、互いに侵食していくようなメディア環境が前提となった今日のアイドルシーンにあっては、そうした二元論で何かを把握することはなおさら適当でない。
他ならぬ松村がキーパーソンを演じた2015年の乃木坂46の舞台『じょしらく』(演出:川尻恵太)でも描かれたように、「演じる」ことの意義や複雑さをロジカルに示してみせる仕方はいくつもあるはずだ。
しかし、本作「うそつき」の凄みは、そうした理屈による反駁とはまったく異なる方法で、アイドルへの粗雑な偏見を睨み返す点にある。
作品終盤、松村は引き続き、細かな「嘘」を媒介にしながらも、同時にアイドルとしてのとあるストレートな振る舞いを披露することで、「嘘/本当」の単純な二元論を超越していく。そしてあくまでコメディとしてオチをつけながら、前半までの口論が前提にしていた価値観を確実に乗り越えてエンディングを迎える。
松村がここで体現しているものは、相手の偏狭な言葉に対するストレートな反論ではない。しかし、「嘘/本当」にこだわる相手の価値観を軽やかに無効化し、己の側に取り込んでしまうそのありようは、アイドルのスペシャリティによってこそ可能になったものだ。論理的な言辞をいくら連ねても決して到達しえない「アイドル」の説得力が、「うそつき」には込められている。