大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックス!承久の乱はなぜ起きたのか?
令和4年(2022年)の放送予定が発表されるや、三谷幸喜の脚本や豪華なキャスト陣が早くも話題を呼んでいる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
ご存じ鎌倉幕府の執権・北条義時(ほうじょう よしとき)が歩んだ波乱の生涯を描いたものですが、そのクライマックスとなる(であろう)承久の乱(承久3・1221年)は、歴史の授業でご記憶のことかと思います。
文武に秀で、武士たち≒幕府を制する野心に満ちた後鳥羽上皇。Wikipediaより。
「尼将軍・北条政子(まさこ。源頼朝公の未亡人で、義時の姉)の演説に奮い立った御家人たちが、鎌倉幕府を潰そうとした後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を返り討ちにしたんでしょ?」
ざっくり言えばその通りなのですが、なぜ後鳥羽上皇は鎌倉幕府を討とうとしたのでしょうか。そして、政子と義時はどうして畏れ多くも官軍を迎え撃つ決断に至ったのでしょうか。
今回はその辺りを紹介したいと思います。
源氏嫡流の断絶、朝廷との対立激化時は鎌倉時代の建保7年(1219年)1月27日、幕府の第3代将軍・源実朝(みなもとの さねとも)が暗殺されると、父・源頼朝(よりとも)公より続いた源氏の血統が絶えてしまいました。
暗殺された源実朝。月岡芳年「美談武者八景 鶴岡の暮雪」より。
武家の棟梁として御家人たちを束ねていた将軍がいなくなってしまっては、鎌倉幕府の正当性がなくなってしまいます。
困った義時と政子は、朝廷に対して後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(まさなりしんのう)を将軍にお迎えしたいと打診します。
「源氏の嫡流(※あくまでも自称)が絶えてしまった以上、その『源(みなもと)』である皇族から将軍をお迎えするより、鎌倉の貴種(正統)性を保つ手立てはあるまい……」
後鳥羽上皇と和歌を通じて仲良しだった実朝が、生前から「親王殿下を養子に迎えさせていただきたい」という話を進めていたため、上手くいくと思ったのですが……。
「……今は事情が違う。朝廷に礼を尽くした実朝が後見人となる予定だったからこそ乗り気だったが、(何かと朝廷に楯突く)北条一族に我が皇子を預けるなど、わざわざ賊徒に人質を差し出すようなもの……断じてならぬ!」
このままだと、本当に鎌倉幕府は求心力を失って御家人たちに見放され、せっかくここまで築き上げた「武士の世」が水泡に帰してしまう……何とか鎌倉殿に相応しい者はいないか探し回ります。
「「いたー!」」
見つかったのは、頼朝公の実妹・坊門姫(ぼうもんひめ)の孫=姪孫(大甥)に当たる三寅(みとら。後に藤原頼経)。当時2歳という幼子ですが、彼の存在は鎌倉にとってまさに天恵でした。
※参考:それ以降の鎌倉将軍たち。
忘れないで!実は9代目まで続いていた鎌倉幕府の将軍たちを一挙に紹介!さっそく鎌倉に迎えた三寅を、補佐する名目で政治の実権を握った義時と政子。これで実朝時代と同じように戻るかと思ったら、そうは後鳥羽上皇が卸しません。
「そんなの、北条の傀儡(かいらい。操り人形)ではないか!断じて認めぬ!」
かくして朝廷と幕府の対立は激化していくのですが、果たして後鳥羽上皇が「幕府を滅ぼそうとしていたのか」あるいは単に「北条一族のみを排斥し、鎌倉幕府自体は残そうとしたのか」については諸説あるようです。
確かに、鎌倉幕府自体を滅ぼしたいのであれば、京都にいた三寅の鎌倉下向を認めなければいい話であり(もし幕府側が拉致でもしようものなら、それこそ逆賊です)、東国武士たちを制御する幕府システムは朝廷の管理下において存続させた方が好都合とも考えられます。
「討ち滅ぼすは北条一族のみ、他の武士たちについては安全を保障してやれば、こぞって我らに味方するであろう!」
そう読んだ後鳥羽上皇らは周囲の反対を押し切り、北条一族を討伐するべく挙兵に踏み切ったのでした。
最後にして最大のピンチを打破した、政子の演説さぁ大変です。
「ついに来た……最も避けたかった形で!」
これまで平家一門をはじめ、梶原景時(かじわらの かげとき)、比企能員(ひき よしかず)、畠山重忠(はたけやま しげただ)、和田義盛(わだ よしもり)など何人もの強敵を葬り、幾度もの死線をくぐり抜けて来た義時ですが、今度ばかりは相手が違います。
名将・畠山重忠の最期。ここで鎌倉幕府が潰えてしまったら、彼らの犠牲は何だったのか。月岡芳年「芳年武者无類 畠山庄司重忠」より。
「かくなる上は、潔く錦旗(きんき。官軍の象徴、錦の御旗)に降るべきだ」
「たとえ処断されようと、朝敵(ちょうてき。朝廷の敵)の汚名だけは避けねばならぬ」
「西国ではかつて冷遇された御家人たちが、次々と上皇方についていると聞く。到底勝ち目はない」
「いや、たとい勝利したところで、畏れ多くも朝廷に対して弓を引いた以上、逆賊として遠からず滅びよう」
「ここは一つ、執権(義時)殿にご覚悟(≒自害)頂き、お詫びの印(≒義時の首級)を持参するしか……」
大いに動揺する御家人たちを叱咤激励したのが尼将軍こと政子の演説と言われていますが、政子自身が演説したという『承久記(じょうきゅうき)』に対して、幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』では、政子の原稿を代読させたと言います。
鎌倉幕府の危機を救った尼将軍・北条政子。Wikipediaより。
皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。
※『吾妻鏡』承久3年5月19日条より。
【意訳】
皆の者、心一つに聞きなさい。これが最後の言葉です。かつて亡き頼朝公は朝敵を滅ぼし、鎌倉幕府を開いて以来、あなたがたの奉公に、山より高く、海より深く報いて下さった御恩をお忘れではないでしょう。
ところで今、悪しき者どもにたぶらかされた上皇陛下が我らを滅ぼせと命じられましたが、心ある者は早く首謀者である藤原秀康(ふじわらの ひでやす)、三浦胤義(みうらの たねよし)らを討ち取り、源家将軍三代の眠るこの鎌倉を守るのです。
それでも上皇陛下にお味方すると言うのなら、今すぐこの場で申し出なさい……!
かつて公家(貴族)たちから地下人(じげにん)と蔑まれ、犬馬のごとく酷使されてきた武士たちは、頼朝公の挙兵から鎌倉に幕府が開かれ、堂々と生きられるようになった今日までを思い出し、涙せぬ者はなかったと言います。
「尼御台様!我ら、鎌倉殿にお味方申す!」
「そうとも、君側の奸(くんそくのかん。君主の傍にいる悪者)を討たいでか!」
「「「討つべし!討つべし……っ!」」」
日本国(全国の軍勢)をもって、関八州(関東八ヶ国)に対すべし……後世そう恐れられた坂東武者らは政子の言葉に奮い立ち、頼朝公が開かれた「武士の都」を守るべく決戦に臨んだのでした。
エピローグ「いざ進め!いまだ兵は集まらずとも、雲は龍に従うものぞ!」
ひとたび戦うと決めた以上、箱根(現:神奈川県箱根町)の天嶮で官軍を待ち受けるより、胸を張って堂々と、京都を目指して進軍させます。
「後は、果報を待つのみ……」
果たして勝利を納めた義時は、それまでの緊張がほぐれてドッと疲れが出たせいか、元仁元年(1224年)6月13日、62歳の生涯に幕を下ろしたのでした。
※政子も嘉禄元年(1225年)7月11日に69歳で世を去っています。
「……我が成しうることはすべて成した……あぁ、強敵(とも)たちよ……そなたらと戦いながら築き上げた『武士の世』が、いよいよの完成じゃ……そなたらの犠牲も、これで少しは報われようぞ……」
かつて鎌倉に幕府を開いたものの、その心はどこか生まれ故郷の京都に向かい、朝廷との融合を望んでいた頼朝公以下三代の源氏将軍。
源家三代の鎌倉を守り、武士の世を築き上げた北条義時。守川周重「星月夜見聞実記 鎌倉営中の場」より。
対して義時たちは、朝廷から半ば独立して「武士の手による、武士のための武士の世」を実現せしめた点において、頼朝公以上の偉業を成し遂げたと言えるかも知れません。
さて、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、義時の葛藤と決断がどのように描かれるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ、2011年3月
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