恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【前編】
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徳川2代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」は継室である「江・崇源院(ごう・すうげんいん)」以外に側室は持たず、江とのみ夫婦関係を貫いたとされる。
しかし、実際の秀忠には江以外の女性との関係があった。
今回は、秀忠と江夫婦の関係性を探ってみたい。
夫・徳川秀忠![](https://image.dailynewsonline.jp/media/9/6/96d4fbc0aa97424fb587936e656d8687bab5d805_w=666_hs=8ec6008acecd75a9d3cc71e167b8d5ea.jpeg)
1595年。浅井長政の三女・江と婚姻。(再婚とされるが、最初の結婚相手である小姫との婚姻に関しては確証がない)
秀忠には、関ヶ原の戦いで開戦に間に合わなかった失態や、大坂冬の陣の強引な行軍などによる失敗など不名誉な記録があり、武将としての評価は低い。
一方、将軍としての秀忠の功績を評価する声は多く、中でも禁中並公家諸法度の制定や娘の和子の入内など、天皇家や公家との関係性強化に尽力した。
徳川実紀によると、温厚な人物であったとされる。
妻・江(崇源院)1595年。徳川家康の三男・徳川秀忠と結婚。江は、過去に織田家の家臣であった「佐治一成(さじかずなり)」及び、豊臣秀吉の甥である「豊臣秀勝(とよとみひでかつ)」と婚姻関係にあり、秀忠との結婚は三度目であった。
浅井三姉妹の末っ子として有名であり、母親・市は織田信長の妹。小柄で華奢な人物であったことがわかっている。
江の人物像に関しては、資料「柳営婦女傳系」に、「 御臺(お江の方)御嫉妬深ければ〜」という記載が確認できる。
子女秀忠と江の間には7人(二男五女)の子供がいた。中でも1604年に誕生した徳川家光は、後に徳川3代将軍となり征夷大将軍となる。
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秀忠と江の子、徳川家光(とくがわいえみつ)(Wikipediaより)
徳川幕府の長い歴史において徳川将軍の正室であり、次代将軍の生母となったのは江だけだった。子女の多さからも推察できるように、夫婦の関係性は良好であったとされる。
秀忠は表向き正式な側室を持たず、江と添い遂げた。
【後編】では、恐妻家や嫉妬妻との逸話が残る理由について考察する。
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