恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【前編】 (1/2ページ)

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恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【前編】

徳川2代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」は継室である「江・崇源院(ごう・すうげんいん)」以外に側室は持たず、江とのみ夫婦関係を貫いたとされる。

しかし、実際の秀忠には江以外の女性との関係があった。

今回は、秀忠と江夫婦の関係性を探ってみたい。

夫・徳川秀忠

徳川秀忠像

1595年。浅井長政の三女・江と婚姻。(再婚とされるが、最初の結婚相手である小姫との婚姻に関しては確証がない

秀忠には、関ヶ原の戦いで開戦に間に合わなかった失態や、大坂冬の陣の強引な行軍などによる失敗など不名誉な記録があり、武将としての評価は低い。

一方、将軍としての秀忠の功績を評価する声は多く、中でも禁中並公家諸法度の制定や娘の和子の入内など、天皇家や公家との関係性強化に尽力した。

徳川実紀によると、温厚な人物であったとされる。

妻・江(崇源院)

1595年。徳川家康の三男・徳川秀忠と結婚。江は、過去に織田家の家臣であった「佐治一成(さじかずなり)」及び、豊臣秀吉の甥である「豊臣秀勝(とよとみひでかつ)」と婚姻関係にあり、秀忠との結婚は三度目であった。

浅井三姉妹の末っ子として有名であり、母親・市は織田信長の妹。小柄で華奢な人物であったことがわかっている。

江の人物像に関しては、資料「柳営婦女傳系」に、「 御臺(お江の方)御嫉妬深ければ〜」という記載が確認できる

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