尊皇攘夷の志半ばに…誤解が生んだ幕末4志士の悲劇「四ツ塚様」事件【上】

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尊皇攘夷の志半ばに…誤解が生んだ幕末4志士の悲劇「四ツ塚様」事件【上】

時は幕末、尊皇攘夷の志に燃え、日本を生まれ変わらせるべく東奔西走した無数の志士たち。

明治維新が成し遂げられた一方で、その奇跡を目にすることなく志半ばに斃れていった累々たる志士たちの存在なくして、今日の日本はありません。

そこで今回は、誤解から非業の死を遂げた4名の志士たち「四ツ塚様(よつつかさま)」事件を紹介したいと思います。

選抜された4名の志士たち

元治元年(1864年)12月、必死の外交努力によって絶体絶命の四境戦争(第一次長州征伐)を回避した長州藩(現:山口県西部)。

長州藩主・毛利敬親。Wikipediaより。

「このままでは収まるまい……一人でも多くの同志を集め、徳川方(幕府軍)の侵攻に備えねばならぬ!」

明けて元治2年(1865年)2月、長州藩は各方面へ同志を募る遊説の使者を派遣。作州方面(美作国。現:岡山県北東部)へは以下の4名を選抜します。

一、岡元太郎敦(おか もとたろうあつし)
天保7年(1836年)生まれの30歳。岡山藩(現:岡山県南東部)に仕えていたものの、文久3年(1863年)に「足利三代木像梟首事件(※)」への関与から脱藩。長州藩へ逃げ込んでいました。
(※)室町幕府の将軍・足利(あしかが)氏の菩提寺である京都・等持院(とうじいん)に安置されていた足利3代将軍(初代・尊氏、第2代・義詮、第3代・義満)の位牌と木像の首を持ち出し、逆賊として梟首(きょうしゅ。さらし首)にした事件で、足利家を徳川将軍家になぞらえた倒幕運動の一つです。
以来、尊皇攘夷の志士として活躍し、元治元年(1864年)には新選組(しんせんぐみ)の密偵として潜入していた松山幾之助(まつやま いくのすけ)を斬殺しています。

一、井原応輔徳道(いはら おうすけのりみち)
天保13年(1842年)生まれの24歳。土佐藩(現:高知県)に仕えていましたが、土佐勤王党(とさ きんのうとう)に入って尊皇攘夷(≒欧米列強に弱腰な徳川幕府の打倒)を実践するべく脱藩。長州へ逃げ込んでいました。

一、島浪間義親(しま なみまよしちか)
天保14年(1843年)生まれの23歳。土佐藩に仕え、文久3年(1863年)、藩命によって京都から追放され、長州へ落ち延びる尊皇攘夷派の公卿・三条実美(さんじょう さねとみ)を護衛。
任務を終えるや否や、大和国(現:奈良県)で起こった天誅組(てんちゅうぐみ)の叛乱に加勢するべく脱藩、大いに奮戦するも敗れて長州へ逃げ込んできました。

一、千屋金策孝成(ちや きんさくたかしげ)
天保14年(1843年)生まれの23歳。土佐の尊皇攘夷運動家ですが、大坂で医術を学んでいることから、武士階級ではなかったのかも知れません。
しかしその志は筋金入りで、文久元年(1861年)に土佐勤王党へ加わり、尊皇攘夷を決行するべく長州へ行きました。文久3年(1863年)京都・禁門の変で敗れ、長州へ逃げ帰っています。

いざゆかん、同志を募る遊説の旅路へ(イメージ)。

「御家の存亡を賭けた此度の大任、しかと果たせ」

「「「「ははあ……っ!」」」」

以上、岡山出身の岡(ちょっと紛らわしいですね)が道案内役、残り土佐出身の井原、島、千屋がその護衛といった4人組で、勇み作州方面へと向かったのでした。

尊王攘夷の志を侮辱され……

さて、4人は順調に旅路を進み、勝田郡百々村(現:岡山県久米郡美咲町)までやってきます。

「この先にある池上屋(いけがみや)は昔ちょっとしたご縁があるのだ」

井原はかつて当家の若衆らに剣術を教えたことがあり、主人の造り酒屋・池上屋文左衛門(ぶんざゑもん)はそのことを覚えていてくれるだろう……そう期待して資金援助を願い出た4人でしたが、文左衛門の態度は冷淡なものでした。

「はっ、尊皇護国の志士などと、乞食侍が御託を並べおって……カネを強請(ゆす)りに来たなら、素直にそう言えばまだ可愛げがあるものを」

資金援助を断るだけなら仕方ないとしても、尊皇攘夷の志を嘲り笑うとは無礼千万……かつての友好を踏みにじられた悲しさもあり、腹を立てた4名はすかさず抜刀。

「おのれ、下手に出ておれば……許せぬ!」

「ひえぇっ、助けてくれぇ……っ!」

文左衛門は煌めく白刃を見るなり、脱兎のごとく店を飛び出してしまいました。

「お侍様がた、主人がご無礼を働きましたこと、お詫び申し上げまする……」

「尊皇護国のため、どうかこちらをお役立て下され……」

店の奥から血相を変えた文左衛門の妻と番頭が金子(きんす)の包みを差し出してきましたが、これを受け取るかどうか、少し迷ってしまいます。

金子(きんす)の包みを差し出す番頭(イメージ)。

「いくら侮辱されたとは言え、刀を抜いて出させた金品を受け取っては、強盗と勘違いされてしまう。ここは諦めて、他を当たるべきではなかろうか」

「しかし、今は危急存亡の秋(とき)だ。奥方と番頭にはきちんと礼節を尽くした上で、ありがたく使わせていただくべきと考えるが、いかが」

「……うーむ……」

4人は相談の上、文左衛門の妻と番頭にお礼と謝罪を述べながら金子の包みを受け取りました。

「ご主人には侮辱を受けてしまったため、あのような仕儀と相成ってしまったが、決して我らは強請でも強盗でもなく、長州藩の命を受けて参った者。どうか、お騒がせしてしまったことを、許してほしい。この金子は、必ず尊皇護国のために使わせていただく

「は……はい……」

かくして金子の包みを受け取り、池上屋を辞去した4人でしたが、これを黙って見逃す文左衛門ではありませんでした。

【続く】

※参考文献:
岡山県 編『岡山県人物伝』岡山県、1911年2月
田中光顕『維新風雲回顧録』大日本雄弁会講談社、1928年3月

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