戦国大名もブランド重視?徳川家康と島津義久の家柄争いエピソード
近年「自分探し」なんて言葉が流行るとおり、人間は自分のアイデンティティやルーツを求めたがる習性があるようで、中には「ウチは武士の家柄で……」なんて語り出す方がたまにいます。
自分ひとりで悦に入っている分には可愛いものですが、時々 「お前はどうせ、農民だったんだろう」 などと根拠もなくマウンティングしてくる手合いがいて、苦笑いを禁じ得ません。
農民も武士もヘチマも、天下泰平の江戸時代ならいざ知らず、いざ戦さになれば戦うヤツ(※)と逃げ出すヤツがいるだけで、本来職業もへったくれもないものです。
(※)例えば幕末、長州藩の奇兵隊や、そもそも武士の起こりが武装・自衛する農民たちでした。
武士だから、闘うんじゃない。闘うから、武士なんだ。錦絵「勝沼駅近藤勇驍勇之図」
まぁ、そうは言っても祖先が有名人や権威者だと、本人は何もしていなくても意味もなく誇らしく感じたり、時と場合によってはハッタリが効いたりすることもあるので、意外とバカにできません。
「おぉ、皇室に連なるお方なのですか……言われてみれば、そこはかとなく気品が感じられるような……」
「かの名将のご子孫ですか……確かに、どっしりとした風格を備えていらっしゃるような……」
そういう祖先のブランドを重んじる心情は、往時の武士たち、それこそ歴史に名を残したような人物であっても同じだったようで、今回は戦国大名の徳川家康(とくがわ いえやす)と島津義久(しまづ よしひさ)のエピソードを紹介したいと思います。
家康が義久に言い放った皮肉ある時、雑談の席で家康が、義久にこんなことを訊ねました。
「島津殿はかつて数々の武勲を重ね、薩摩と大隅(現:鹿児島県)、日向(現:宮崎県)の三ヶ国を制された御大身なれば、後学のため武勇伝など拝聴したい」
かく言う家康はかつて東海五ケ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)を切り取り、後に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から関東八ケ国(上野、下野、常陸、武蔵、下総、上総、安房、相模)を与えられており、純粋な憧れなどでないことは明らか。
(やがて豊臣の世が終われば、全国の強豪たちと再び天下を争うことになろう。今の内から、少しでも情報を掻き集めておかねば……)
一口に武勇伝と言っても、その中には敵味方の兵力差や戦術、家中の人間関係や弱点など、様々なヒントがちりばめられているもの。訊かれた側は往々にして「もっと知って欲しい、褒めて欲しい」などと思っており、あれこれ語ってしまいがちです。
まったく油断も隙もありませんが、そんなタヌキ親爺の意図を知ってか知らずか、義久はそれとなくはぐらかします。
「いやぁ……お恥ずかしい話にはございますが、それがしはいつも弟や家臣らに戦わせ、自分はただ本陣に座って戦果の報告を受けるばかり。とても徳川殿にお聞かせできるような武勇伝などございませぬ」
チッ、乗って来ぬか……情報を引き出せなかった家康は、捨て台詞にちょっとした嫌味を言い放ちました。
「何を仰せられますか……総大将たる者は自らの手を砕くことなく家臣に勝利をつかませるが最上……さすがは島津殿、源頼朝(みなもとの よりとも)公もかくやとばかりの将器にございますなぁ……」
これだけ聞けば、かつて鎌倉に武士の世を開いた頼朝公に比肩する将器を褒められたのだから、決して悪い気はしない筈ですが、家康の意図は何だったのでしょうか。
どっちもどっちの家柄争い島津氏はその祖先である惟宗忠久(これむねの ただひさ)が頼朝公の庶子であるという言い伝えを元に、源氏の末裔を自称していましたが、その根拠は極めてあいまいなものでした。
「いやぁ、さすがは『頼朝公のご子孫』ですねえ」
家康の言葉は、そんな島津氏に対する皮肉に外なりませんが、じゃあそんな徳川氏はどうかと言えば、これまた源氏の名門である新田(にった)氏の末裔……を自称していたものの、これまた根拠に乏しいものでした。
「うるさい、そなたらとて自称のくせにっ!」
同じ源氏を自称する者同士、もしかしたら「どっちがより嫡流に近い=格上か」なんて家柄争いをしていたのかも知れませんね。
この場合だと、新田氏よりも「源氏の嫡流(※まぁ、これさえも自称なのですが)たる頼朝公」により近い島津の勝ちと言ったところでしょうが、結局は天下が徳川の手に帰したことを思えば、家柄よりも中身の方がより大事なのだと実感できます。
※参考文献:
岡谷繁実『名将言行録 現代語訳』講談社学術文庫、2013年6月
野村武士『島津忠久と鎌倉幕府』南方新社、2016年11月
平野明夫『三河 松平一族 徳川将軍家のルーツ』洋泉社、2010年5月
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