まさに源義経の再来!毛利元就に討たれた悲劇のイケメン戦国武将・相合元網のエピソード (3/3ページ)

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元就としては、かねて元網を自分の立場を脅かす存在として警戒していたのか、生かしておけぬとこれを粛清。若い命(※)を散らせてしまったのでした。

(※)元網の生年は不明ですが、明応6年(1497年)生まれの兄・元就より年下で、かつ幼い嫡男(当時1~9歳?)がいたことを考えると、明応7年(1498年)から永正2年(1505年)ごろまでには生まれていた(享年20~27歳)と考えられます。

しかし、元網を担いだ坂広秀は、その前年に元就の家督相続を要請する宿老15名の連署に名を連ねており、たった1年で手のひらを返す態度はどうしたことでしょうか。

このクーデター未遂には出雲国(現:島根県東部)の尼子(あまご)氏や石見国(現:島根県西部)の高橋(たかはし)氏が関与しており、元就よりも都合のよさそうな元網を担がせて毛利家を両断し、内紛を起こさせる狙いがあったとも言われています。

坂広秀が翻意したのは、何かよんどころない事情(例えば尼子らの謀略など)があって引くに引けなくなってしまい、一縷の望みを賭けて十分な準備もないまま挙兵に踏み切ろうとしたのかも知れません。

元綱の壮絶な最期(イメージ)。

「兄上……!」

まだ幼かった嫡男だけは連座を免れて助命され、後に敷名元範(しきな もとのり)と改名して大笹山城主(広島県三次市)、旗返城主(同)など歴任。毛利兵部太夫(ひょうぶだゆう)とも呼ばれ、その血脈を後世に伝えたのでした。

※参考文献:
河合正治『安芸 毛利一族』新人物往来社、1984年11月
河合正治 編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月

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