坂本龍馬の人生のターニングポイント?品川からほど近い立会川に龍馬像が建ってるわけ

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坂本龍馬の人生のターニングポイント?品川からほど近い立会川に龍馬像が建ってるわけ

生まれ育った高知。
亀山社中および海援隊を設立した長崎。
新しい時代のために奔走。そして、志半ばに散った地京都。

一般的に坂本龍馬ゆかりの地として思い浮かべる土地といえば、この辺りが代表的だろうか。

この3か所に比べるとあまり注目されないが、龍馬は18歳の頃から1年ほど江戸遊学をしており、品川から電車で10分ほどの立会川駅近くには、桂浜に建つ龍馬像と同じポージングの銅像が建てられている。

なぜ?立会川に建つ龍馬像と江戸で過ごした1年間

立会川の坂本龍馬像(しながわ観光協会ホームページより)

龍馬の人生を前半後半に分けるとするなら、京都や長崎で過ごした所謂、激動の幕末維新志士時代は後半生にあたる。

土佐藩の下級武士の家に生まれ育ち、18歳で江戸遊学、千葉道場への入門、佐久間象山の下で砲術や蘭学を学び、土佐に戻って土佐勤王党に加入、そして脱藩、勝海舟と出会い・・・前半生はこの辺りになるだろうか。

31年という決して長いとはいえない人生だが、それだけにここでは語り切れないほど濃い一生を送っている。

ヴィルヘルム・ハイネによる横浜への黒船来航図(Wikipediaより)

龍馬が立会川で過ごしたのは19歳(嘉永6・1853)の年である。この地には当時、土佐藩の下屋敷があり龍馬は土佐藩の命令で屋敷の警護にあたっていたことから、駅近くに龍馬像が建っているのだ。

ちなみに、この年には浦賀沖にペリー率いるアメリカ艦隊が来航している。

黒船を脅威に感じた幕府によって、当時の品川沖には江戸を守るための台場やその近辺には砲台が築かれていた。

龍馬は日本に迫る異国の脅威を多感な青春期に間近で感じていたことになり、これが後の人生に影響を及ぼしたのではと思わずにはいられない。

銅像だけじゃない。立会川近辺の龍馬ゆかりのスポット

2015年に新浜川公園に復元された浜川砲台(しながわ観光協会ホームページより)

現在は龍馬が警護にあたった土佐藩下屋敷は現存しておらず、眺めたであろう品川台場は撤去や埋め立てにより、一部が現存するのみ。

ゆかりの「何か」といえば、駅近くに建つ龍馬像だけかと感じてしまうかもしれないが、実はそんなこともない。

下屋敷の跡地である新浜川公園には、かつて邸内にあった西洋式の砲台が復元され、砲術を学んだ若き日の龍馬に想いを馳せることができる。

東海道五十三次 品川・日の出(国立国会図書館デジタルコレクション)

また、立会川駅から歩いて5分ほどの場所には、安政3年創業の「そば会席 立会川 吉田屋」がある。江戸時代には旧東海道に面した場所にあったため、街道を行き交うたくさんの旅人たちはもちろん、龍馬や山岡鉄舟も立ち寄り手打ちそばに舌鼓を打ったという。

余談だが、徳川慶喜に大政奉還を建白し、明治維新の先駆者として活躍した土佐藩15代藩主 山内容堂の墓所は隣駅の鮫洲にある。下屋敷のあるこの地を愛した容堂の遺言によるものだ。

龍馬が江戸で過ごしたのはたった1年ほどではあるが、この地で学び見聞きしたことの全てが人生のターニングポイントとなったことだろう。

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