水墨画の巨匠にもうひとつの顔!?雪舟に守護大名大内氏のスパイ説 (2/3ページ)
雪舟は当時、遣明船が中国大陸の窓口である寧波に着岸し、貿易品の荷揚げや政府の許可を待つ間、地元の天童寺に通い、住職に次ぐ「四明天童第一座」の称号を獲得。文明先進国だった中国の名誉称号が日本でブランド力を発揮していた時代だったことから雪舟は帰国後、作品の落款に好んでこれを使ったという。
また、雪舟はこの間、随行画家の役目もそつなくこなし、明を回って風景や風俗などをスケッチ。当時の体験が後の水墨山水画のリアリティーに繋つ ながった一方で、帰国後に前述のようにスパイの顔を覗かせる。
遣明船が日本に戻った文明元年(1469)は応仁の乱の真っ最中軍方である大友氏の本拠で、雪舟にとっては敵地。彼はここで、いったい何をしていたのか。
■漂泊の画家の名の通り終焉の地も諸説がある
大内氏は当時、少弐勢と豊前国で対峙し、その後、本格的に交戦。
一方、大友氏とは和睦に対する気運が高まりつつあり、雪舟の足取りはその時期と重なり、彼はその頃、府内に「天開図と画楼」という住居兼アトリエを持っていた。
ここは中世絵画史が専門の島尾新氏によると、いわば大内氏の出張所の役目を果たし、雪舟が豊後府内の情報を収集するとともに、大友氏への取り次ぎ役だった可能性があるという。
だとすれば、雪舟は大内氏の意向を受け、極めて政治的な役割を担っていたことになる。
ただ、当時は実際、禅僧や芸術家が大名の依頼で外交を担ったケースも少なくなかった。
島尾氏は実際、雪舟が文明一三年(1481)、六二歳で美濃に旅に出たときも大内氏のスパイ的な役割を担った可能性があると指摘。
雪舟は芭蕉が四六歳で奥州に向けて旅立った一方、はるかに高齢だった。
だが、雪舟もこのとき、奥州まで足を伸ばしたとされ、その根拠が彼自身が描いた『山寺図』。山寺といえば、芭蕉が有名な「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠んだ立石寺(山形市)を思わせる。
事実、雪舟も同じく立石寺まで行き、『山寺図』を書いたというのが一時、定説だった。