水墨画の巨匠にもうひとつの顔!?雪舟に守護大名大内氏のスパイ説 (3/3ページ)
ところが、その原本は失われ、現存するのは江戸時代の画家だった狩野常信の模写で、山寺も通称に過ぎず、かつ、実際の立石寺の景色が彼の絵に似ていなかったため、その場所を巡り、備中国説や石見国説などが入り乱れた結果、美濃国の楊岐庵(岐阜県山県市)周辺の景観という説で概ね落ち着いた。
楊岐庵は美濃の守護代だった斎藤一族の春岳寿崇の庵だとされ、彼の兄である斎藤妙純は前年の文明一二年(1480)、内紛に勝利したばかり。
その妙純は内紛の渦中、美濃にいた足利義材 (のちの室町幕府将軍)とともに戦い、大内義興はその後、一度は将軍を廃された義材( 義稙と改名)を奉じて上洛し、将軍に復位させる。
つまり、大内氏にとって美濃は非常に関係が深い国。このときも雪舟が大内氏の密命を帯び、情報収集の狙いで美濃入りした可能性は捨て切れない。
そんな雪舟は永正三年(1506)、八七歳でこの世を去ったというのが定説だが、むろん、定かではない。
漂泊の画家らしく、終焉の地も山口の他、益田(島根県)や芳井 (岡山県)など複数の説がある。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。