「関東戦国史」の最大のハイライト!「上杉謙信VS北条氏康」ライバル対決 (2/3ページ)
彼らにすれば、謙信が関東管領の憲政を奉じていたことから、旧主が越後の強兵を引き連れて領地を奪回しにきたと映ったのだろう。
謙信の元には上野や下野どころか、武蔵、常陸、下総、上総、安房の国衆も参陣。
一方の氏康は武蔵国の川越城から松山城(埼玉県比企郡吉見町)まで進軍したものの、相手方の陣容はまさに“オール関東”で、各地の城を落とされて本城に籠城するしかなかった。
とはいえ、小田原城といえば、総延長九キロにも達する総構えを有する国内最大規模の城。大軍を擁す謙信も包囲こそしたものの、簡単に攻め落とすことはできない。
しかも、氏康はこの間、甲斐の武田、駿河の今川と甲相駿三国軍事同盟を締結。当時、桶狭間(愛知県名古屋市、豊明市)で今川義元が討ち死にしたため、その援軍はわずかだったものの、一方の武田信玄は自ら兵を率いて相模に進軍する勢いを見せ、謙信はこの動きを警戒した。
というのも、謙信はそれよりも以前に三度、北信濃の川中島(長野市)で信玄と戦い、いつ背後を突かれるかもしれなかったためで、両者は翌年に実際、同じ舞台で有名な第四次合戦を展開。戦国史上、最大の激戦となった。
一方、謙信の小田原城包囲は実際、一〇日ほどだったようで、彼は越後に帰る途中、鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄り、前述のように憲政から上杉家の家督と関東管領職を正式に譲り受けている。
すると、これを機に、それまでとは逆の現象が起きる。
■ライバルは利害一致で一転して同盟を結んだ
一度は上杉方になびいた関東の国衆の多くが北条方に復帰したのである。はたして、その要因はいったい、なんだったのか。こんな話がある。
鶴岡八幡宮で儀式の最中、武蔵国忍城主(埼玉県行田市)の成田長泰に対し、「扇をもって謙信公、忍(長泰のこと)が頭を二つまで、したたかに打ち給ふ」(『松隣夜話』)とされる事件が起きた。