「関東戦国史」の最大のハイライト!「上杉謙信VS北条氏康」ライバル対決 (1/3ページ)
関東における戦国時代は享徳の乱で始まったとされ、上杉氏と北条氏による覇権争いでハイライトを迎える。
この地方の勢力図は戦国時代の前期、山内上杉氏と扇谷上杉氏が長享の乱で対立して弱体化した隙に、伊豆国韮山城(静岡県伊豆の国市)を居城とする伊勢宗瑞(北条早雲)が進出したことから一変。
早雲が乱に乗じて小田原城を奪い取って相模国で地歩を固めると、嫡男である氏綱が勢力を拡大し、孫の氏康の代になって関東全域に覇を唱えたことから、上杉氏の本拠地だった上野国もその攻勢に晒されるようになった。
こうした中、山内上杉家一五代当主である上杉憲政は天文二一年(1552)、本拠の平井城(群馬県藤岡市)を追われて白井城(同県渋川市)に入ったものの、巻き返しを図ることはできず、同年中に長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に亡命。
景虎が後に憲政から上杉家の家督と関東管領職を譲られ、北条氏康と渡り合うことになった。
その氏康は小田原北条氏の最盛期を築いたことで知られる一方、税制改革を実施して民政面でも敏腕を振るった武将として知られ、年齢は謙信よりも一五歳上。彼は永禄二年(1559)、関東で発生した飢饉の影響から人心の一新を図るため、家督を嫡男の氏政に譲ったあとも「御本城様」と呼ばれて隠然たる影響力を持ち、隠居の翌年、関東に侵攻してきた謙信と激突した。
永禄三年(1560)八月二五日、謙信が居城の春日山城(新潟県上越市)を発ち、翌二九日に上野国に入って沼田城などを立て続けに攻め落とすと、それまで氏康に従っていた国衆がこぞって寝返った。