なんともマヌケな人違いで起きた、江戸中期の熊本藩主 殺害事件の悲劇【前編】

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なんともマヌケな人違いで起きた、江戸中期の熊本藩主 殺害事件の悲劇【前編】

太平の世となった江戸時代は、戦国のような大名同士の戦こそなくなったものの、小さな小競り合いや悶着は頻発した。中には事件や事故に巻き込まれ、不幸というほかない最後を遂げた人物も存在した。

今回は、そんな中でも江戸中期に些細な勘違いから起きてしまった殺傷事件をご紹介する。

登場人物①板倉 勝該(いたくら かつかね)

江戸中期。旗本であった板倉重浮の次男として生まれる。1746年には6000石を拝領し上級旗本となり、江戸幕府9第将軍・徳川家重に謁見した。

兄が亡くなり家を継ぐ立場にあった勝該だったが、日頃から狂気じみたところがあり素行が悪かったとされる。主家にあたる本家当主の板倉勝清は、分家といえども勝該に当主を継がせることに後ろ向きであり、官職を辞して引退させる意向があった。

登場人物②細川 宗孝(ほそかわ むねたか)

細川宗孝(Wikipediaより)

肥後国(現在の熊本県)熊本藩5代藩主。1716年、前藩主で父親の細川宣紀の四男として生まれた。1732年には16歳で家督を相続。徳川幕府8代将軍・徳川吉宗より偏諱を受け、宗孝と名乗った。

祖先には徳川家康に重用され、肥後細川家の礎を築いた戦国大名・細川藤孝がおり、「孝」の字を受け継いでいる。

殺傷事件

舞台となった江戸城(Wikipediaより)

1747年。江戸城に登城していた宗孝は、厠(トイレ)を利用している際に突如として背後から勝該に襲われる。不意を突かれ背中を斬られた宗孝はそのまま絶命した。

宗孝には勝該に命を狙われる謂れはなく、31歳であった宗孝には世継ぎもいなかった。唐突に主君を失った細川家は、改易の窮地に立たされることとなる。首謀者である勝該本人は捕らえられ、同月のうちに切腹となった。

【後編】では、事件の動機や、その後の細川家の処遇をめぐるいきさつをご紹介する。

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