なんともマヌケな人違いで起きた、江戸中期の熊本藩主 殺害事件の悲劇【後編】 (2/2ページ)

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細川家の九曜紋(Wikipediaより)

板倉家の九曜巴紋(Wikipediaより)

細川家断絶の危機とお家存続

当時の慣しでは、殿中での刃傷事件は両成敗が原則であり、当主を失った細川家には改易の可能性があった。

事件の場に居合わせた陸奥国仙台藩の第6代藩主・伊達宗村は、細川家の家臣に宗孝の息があることにして、末期養子をたてることをとっさに助言。弟の重賢(しげかた)を次代当主にすえることに成功し、事なきを得た。

勝該が事件を起こした動機には異説も存在し、本当に宗孝を狙ったという説もあるが、真実は定かでない。

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