日本史上で有名な男色・衆道の例をご紹介!有名人から意外な人物まで

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日本史上で有名な男色・衆道の例をご紹介!有名人から意外な人物まで

日本には、古くから男色(男性同士の性愛)の文化があったといわれています。

仏教の伝来とともに僧侶や公家たちのあいだで広まり、室町時代や戦国時代には武士たちのあいだで盛んになりました。そして、江戸時代には町人文化にも表れるようになったといいます。

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そこで今回は、日本の歴史の中で、男色関係があったといわれている有名な人物についてご紹介したいと思います!

自分の日記にも記述を残した藤原頼長

他人に厳しく、能力・行動が型破りなことから「悪左府」という異名で有名な藤原頼通。彼は自分の日記『台記』に、自身が男色で感じた快感や少年たちへの想いが赤裸々につづられています。

彼には妻がおり、女性がいない環境ではありませんでしたが、貴族など7人の成人男性と愛人関係にあったと伝えられています。そのうちの一人、源成雅については、頼長の父、藤原忠実とも関係があったといわれています。

織田信長の相手は……

日本史上、最も有名な人物の一人である織田信長も、男色経験者だといわれています。相手として有名なのが、森蘭丸でした。彼は小さいころから端正な顔立ちで、信長に気に入られていたそうです。

信長は、森蘭丸に身の回りの世話をさせるなど、秘書的な役割も担ったといいます。また、信長は、前田利家とも関係があったのではないかという説もあります。

実力派の武田信玄も

戦国時代において、実力No.1武士として有名な武田信玄。彼も男色経験があったといわれており、有名な相手は高坂昌信。森蘭丸のように、幼いころから容姿端麗で、信玄もかなり思いを寄せていたといいます。あるときには、信玄が他の人に手を出したことを、高坂昌信に釈明する手紙を送ったといわれており、それはラブレターのようであったといいます。

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アツイ男・伊達政宗

「独眼竜」の名で有名な伊達政宗。戦国末期に活躍した、評価の高い戦国武将ですが、そんな彼にも男色の相手がいたといいます。お相手は、片倉重長。この二人には、大坂の陣出陣前の逸話が残っています。重長にとって初陣となる大坂の陣でしたが、彼は片倉の名を汚さないように先陣をきらせてほしいと政宗に頼み込んだのだそうです。そして、それに対して政宗は、「お前以外の誰にも先陣をやらせない」と涙を流しながら承諾したそうです。

大奥誕生のきっかけを作った?徳川家光

江戸幕府三代将軍・徳川家光は、元服前の苦い経験から、女性を受け付けなくなってしまったことがあったそうです。しかし、将軍に取って子孫を残すことは大事な仕事。そんな家光を心配して、時の権力者・春日局は、家光の側室に小姓姿をさせたりして、彼の気を引こうとしたといわれています。

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いかがでしたか?

今回は、日本の歴史上の人物で、男色関係があったと言われている例をご紹介しました。

ただし、武士の場合、主君と家臣という忠義のかたちとしての男色もあり、そこには、後世になって「寝所に一緒にいたのだからそういう関係なのだ」と拡大解釈されたと思われる場合もあるため、一概に「男色があった」と言い切れない部分もあります。

ご興味を持った方は、ぜひ、ご自身でも調べてみてくださいね。

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