少年マンガっぽい響きにキュン!古代ヤマト政権「倭の五王」の正体とは?

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少年マンガっぽい響きにキュン!古代ヤマト政権「倭の五王」の正体とは?

『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」

日本国内では、弥生時代の文字による記録は残っていません。しかし、中国の歴史書に当時の日本の動向や人名がいくつか載っていることは、別の記事でご紹介しました。

弥生時代、日本が世界史デビュー!記録の断片が醸し出す古代ロマン

魏志倭人伝以降、日本の歴史はしばらく不明となります。分かっているのは、弥生時代に続く「古墳時代」になると、畿内を中心に「ヤマト政権」という連合体が成立し、東西にその影響力を及ぼすようになったらしいということです。このことは、発掘された古墳や遺跡などから推測されています。

人型の埴輪

発掘された古墳の副葬品が武具や馬具が中心だったことから、この時代の権力者は、卑弥呼のような「司祭」ではなく、武力で豪族を従えて勢力を拡大する「武人」だったと見られています。

そして、久々に中国の歴史書に、日本すなわち当時の「倭」の話題が登場します。それは中国南朝の歴史書『宋書』倭国伝で、その中に「倭の五王」というのが登場するのです。

倭の五王! なんだか少年マンガっぽい響きでかっこいいですね。彼らは「讃・珍・済・興・武」という名で呼ばれています。ただ、後述しますがこの名前は本名ではありません。

『宋書』倭国伝によると、宋の時代(420~479)に、この「倭の五王」の使いが貢物を持って参上し、臣下の礼をとったそうなのです。

当時の中国は分裂状態で、南北でそれぞれまとまった国家を成立させていました。日本は、このうち「南朝」の国に貢物をすることで称号や地位をもらっていました。

なぜ、そんなことをする必要があったのでしょう?

今回は、この「倭の五王」の動向を通して、当時の日本とその周辺のことについて掘り下げてみようと思います。

当時の朝鮮半島諸国との関係

「倭の五王」の動向の理由を知るには、当時の朝鮮半島の情勢を知っておく必要があります。

wikipedhia『三国時代(朝鮮半島)』より

当時、朝鮮半島北部の国「高句麗」は、南下政策をとっていました。

そのため、南部の国「百済」や中南部にあった小国家群「加耶諸国」は圧迫される形になっていました。

それは、当時の「倭」で絶大な力を持っていたヤマト政権にとっても都合の悪いことでした。加耶諸国から得ていた鉄資源が途絶えるおそれがあったからです。

また、ヤマト政権は、大陸からの文化を摂取することで文明的な力をつけ、国内の諸豪族を従わせていました。国外での勢力を維持することは、国内での権力と政治の安定を維持するための必須条件でもあったのです。

よって、ヤマト政権は、百済や加耶諸国と手を組んで、高句麗と戦うようになりました。

この頃の記録は日本国内には残っていません。

しかし、大陸には、有名な「好太王碑(こうたいおうひ)」という石碑が残っています。「広開土王碑」とも呼ばれているものです。この石碑に、日本が朝鮮半島に出兵したことを示す碑文が残っています。

好太王碑について少し解説しますと、これは高句麗の19代目の王・好太王(広開土王)の業績を称えたものです。現在の中国吉林省に存在しており、4~5世紀初頭の朝鮮半島の歴史などを知る上での貴重な一次資料とされています。

Wikipedia『好太王碑』

ここには、ヤマト政権が派遣した軍が高句麗と戦ったことが記されています。

碑文の読み方や解釈については諸説あるようですが、当時の高句麗は、朝鮮半島中南部以降の諸国の動向に目を光らせており、わりと頻繁に倭人(日本人)の侵入を受けて交戦していたらしいことが伺われます。

ちなみに、高句麗との争いを通して日本は騎馬技術を習得し、馬の育成を始めたとされています。当時、高句麗は騎馬軍団を持っていたのでそれに対抗する必要があったのでしょう。

他国に軍隊を送り込んだり、戦場での技術を進化させたりと、当時のヤマト政権はなかなかの軍事国家だったことが伺えますね。しかも、国外へ出兵する余裕があったということは国内政治も安定していたと思われます。

さて先述の通り、好太王碑に記されているのは4~5世紀初頭の出来事です。そろそろ「倭の五王」の登場です。彼らは、こうした朝鮮半島情勢をふまえ、その渦中にあった倭を高い地位において外交や軍事を優位に進めていくために、中国へ使者を派遣していたのです。

当時は、朝鮮半島の諸国も同じようなことをしていました。こうしたやり方が、当時のスタンダードだったのでしょう。

その結果、ヤマト政権は朝鮮半島内の新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治について公認を得ています。

また、倭の五王が中国へ使いを送っていた理由はそれだけにとどまりません。当時の中国の文明を摂取しつつ、皇帝の威光によって日本国内の支配と安定をはかっていたとも考えられています。

「倭の五王」の正体は

さて、では「倭の五王」として記録が残っている「讃・珍・済・興・武」とは何者だったのでしょうか?

この「讃・珍・済・興・武」というのは、いずれも当時の「倭」の王で、名前を中国の習わしに合わせて漢字一文字で表したものです。しかし具体的に「どの王がどれを名乗ったのか」は記録がないため判然としません。

ここで、天皇の歴史が記された『日本書紀』『古事記』と、『宋書』倭国伝を突き合わせていく作業が必要になります。

まず結論を述べると、「讃」と「珍」は、史料同士の食い違いが多いためその正体を特定するには至っていません。

他の「済・興・武」については、

済……允恭(いんぎょう)天皇
興……安康(あんこう)天皇
武……雄略(ゆうりゃく)天皇

とするのが、最も有力な説となっています。

このうち、「武」にあたる雄略天皇は古墳時代で最も有名な大王です。彼は強烈なカリスマを持った武人で、従わない勢力を徹底的に潰したといわれています。

その頃、ヤマト政権内部では天皇家の勢力が衰えていたのですが雄略天皇によって盛り返しています。

そして中国の記録では、「武」という王は日本や新羅、加耶の軍を束ねる将軍としての称号を与えられています。

一方日本国内では、、雄略天皇の名前を意味する「ワカタケル」という名が刻まれた鉄剣や鉄刀が5世紀末頃の遺跡で見つかっています。これにより、「武」という名は「タケ」または「タケル」を意訳したものと考えられます。

参考資料
山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書』2019年
世界の歴史まっぷ「好太王碑」

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