浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)と日本の三大宗祖 (3/4ページ)
「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
もはや念仏を唱える自分すらいない。私が念仏するのではない。「念仏が念仏する」というのである。念仏が極まることで「無我」に至るのである。ここまで来れば迷いも苦しみもない。その境地に民を導くため、一遍は称名念仏に踊りを加えた。唱え、踊り、悩み苦しむ我を開放させる。一切の執着は消えてなくなる。あとは極楽浄土へ行くだけである。
一遍が「三部経」で重視したのは「阿弥陀経」であった。「阿弥陀経」は極楽浄土の情景が描かれおり、念仏による往生を説いている。「念仏が念仏する」ことで阿弥陀仏そのものになった一遍の前に広がるのは極楽浄土のみであった。一遍の念仏は自ら体験しなければ理解は困難である。虚心坦懐に「阿弥陀経」に展開される極楽の描写を味わうことで、その一端に触れることができるかもしれない。
■慈悲の心が作った流れ
浄土系仏教の三大宗祖がそれぞれ異なる「三部経」を選んだことで、日本仏教に浄土教という巨大な流れが完成した。偶然ともいえるし歴史の必然ともいえる。確実なことは法然、親鸞、一遍に共通した、迷い・苦しみから民を救いたいという願いが結実したことだ。それは阿弥陀仏の慈悲そのものであった。