財政問題、後継者問題に大忙し…江戸時代の三大お家騒動のひとつ「仙石騒動」とは?
みなさんは、「仙石騒動」という歴史上の出来事を聞いたことがありますか?
以前紹介した黒田騒動、伊達騒動と並んで、江戸時代の「三大お家騒動」のひとつに数えられるものです(仙石騒動ではなく、加賀騒動がもう一つの騒動として紹介されていることもあります)。
仙石騒動に至るまで出石藩(いずしはん)は但馬(たじま)国に存在した藩で、こちらが仙石騒動の舞台となりました。騒動の中心人物は、仙石左京と仙石造酒(みき)。
仙石家は、藩祖・仙石秀久の長男である久忠の血筋から、本家の家臣について、「式部家」、「主計家」の2つに分立しています。仙石左京は式部家の出身、仙石造酒は主計家の生まれです。
このときの藩主は6代・仙石政美でしたが、2人が重役についていたころ、仙石家は6万石もの借金を抱えていました。
まず仙石造酒が財政政策を担いましたが、彼の政策は効果が上がりませんでした。そこで次に仙石左京が変わって改革を行いました。
造酒は保守派、左京は改革派という対立構造が生まれます。左京の改革も思ったように効果が出なかったため、藩主は造酒を復権させることにします。しかし、その直後に藩主の仙石政美が28歳という若さで急逝。当時、彼に男子がいなかったことから、跡継ぎ問題が発生します。
仙石騒動の勃発跡を継ぐ人がいなかったことで、仙石家はお家断絶の危機に追い込まれます。そこで、前藩主・久道が主導して江戸藩邸にて話し合いが行われることになりました。この場に左京が実子である小太郎を同伴させたことから、造酒は不信感を抱き、さらに対立は深まります。
造酒派のリードで会議は進み、後継者は政美の弟の道之助を元服させ久利とすることで決まりました。この結果、藩の実権は造酒派が掌握。彼らは左京の政策を廃止しましたが、派閥内での争いが激化し、その結果造酒は隠居させられることに。
彼はその後まもなく亡くなり、ました。
仙石騒動のその後一方、権力を持った左京ですが、面扶持(上げ米制のこと)、年貢徴収の安定化を図るために定免制などを発令。しかし、江戸で寺社奉行・町奉行の権力争い、老中同士の争いなどがありました。
松平康任は左京から多額の賄賂を受け取っていたことなどから、失脚(老中辞任)させられました。幕府の決定により、左京は獄門打ち首に。左京派は大きなダメージを受けました。その後も、仙石藩では藩内で争いが続いたといわれています。
いかがでしたか?
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