開港から明治維新まで相次ぎ発生していた攘夷派による横浜での外国人殺傷事件簿

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開港から明治維新まで相次ぎ発生していた攘夷派による横浜での外国人殺傷事件簿

約260年続いた江戸時代は長らく鎖国状態にあったが、アメリカのペリー来航を機に開国をすることとなった。

安政5(1858)年には大老井伊直弼によって、アメリカとの間に日米修好通商条約が締結され、その後もイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも同様の条約が結ばれた。所謂、安政の五カ国条約である。

横浜や箱館が開港され各国との貿易が始まるが、不平等な条約だったために外国人を払おうとする攘夷運動が活発化。中でも開国後頻繁に発生し、国際問題にまで発展したのが攘夷派の侍による外国人殺傷事件で、特に開港直後の横浜では被害が相次いだ。

ロシア海兵殺害事件

『ヲロシヤ国船之略図』(国会図書館デジタルコレクション)

安政6(1859)年8月18日、ロシアの東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ率いる艦隊が、通商条約の批准書交換と国境画定交渉のために来航した。

被害に遭ったのは、そのうちの一艘アスコルド号の乗組員で見習士官の海軍少尉モフェトと水兵ソコロフだった。

2人は買い物を済ませ、店を出たところを待ち構えていた攘夷派の侍に突如斬りかかられたる。ソコロフは即死、モフェトは重傷を負った後死亡した。

『WOROSIJAZIN(ヲロシヤ人)遊行』一鵬斎芳藤(国会図書館デジタルコレクション)

ロシアは幕府に対して賠償金を請求することはなかったが、殺害された2名の墓標を造り、それを永久に保護することを求めた。

この事件の犯人は長らく不明のままだったが、6年後の慶応元(1865)年に水戸天狗党の小林幸八だったことが本人の自供で判明し、横浜で処刑された。

オランダ人船長殺害事件

 ロシア海兵殺害事件とオランダ人船長殺害事件の現場付近。『神名川横浜新開港図』歌川貞秀(浮世絵検索)

安政7(1860)年2月26日、オランダ人船長フォスとデッケルが買い物を済ませ、船に戻ろうとしていたところ惨殺された。殺害現場は前年にロシア海兵殺害現場が起きたわずか100mほどの場所だった。

オランダは幕府に対して1700両の賠償金の支払いと犯人の処刑を要求し、この事件は日本が外国に賠償金を支払った前例となった。

しかし、賠償金は支払ったものの、肝心の犯人は最後まで判明せず不明のままである。

ロシア海兵とオランダ人船長が殺害された現場は現在の横浜市中区本町付近で、当時は多くの様々な店が軒を連ねる大通りであった。

生麦事件

『生麦之発殺』早川松山(Wikipedia)

文久2(1862)年9月14日はよく晴れた日だった。生糸商人のウィリアム・マーシャルとハード商会のウッドソープ・クラーク、マーシャルの妻の妹ボラディル夫人、クラークと予てより交流のあったチャールス・リチャードソンの4人は、馬に乗って川崎大師へ向かっていた。

その道中、薩摩藩島津久光の大名行列と遭遇するが、下馬することなくそのまま行列に乗り入れてしまったリチャードソンが斬り付けられ殺害された。幕末史においてあまりにも有名な生麦事件である。

クラークとマーシャルも重傷を負ったが、アメリカ領事館に逃げ込み助かり、ボラディル夫人も馬を走らせ、横浜居留地に逃げ帰ったため無事であった。

『東海道之内 生麦』歌川貞秀(国会図書館デジタルコレクション)

生麦事件は攘夷派による殺傷事件とは異なり、偶発的に起きたことではあるものの、日本に与えた影響は大きく、イギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩に2万5千ポンドの賠償金を請求。薩摩は支払いに応じなかったため、事件の翌年に薩英戦争が起きた。

横浜周辺では開港からわずか2か月後にロシア海兵殺害事件が起こり、その後も相次いで外国人が殺傷される事件が起き、横浜居留地に住まう人々を震え上がらせた。
今回紹介した事件の被害者は全員、横浜外国人墓地で眠っている。

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