国のためなら反逆の罪も覚悟!江戸時代の三大お家騒動「黒田騒動」をご紹介 (2/2ページ)

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黒田忠之

黒田忠之

主役はたったの2人で、筑前52万石の黒田忠之(くろだただゆき・2代藩主)と、後見役の栗山大膳だけです。忠之は新藩主となったあと、自分勝手な行動が続き、これに大膳が注意をしても退けられてしまいます。

そこで大膳は幕府に「忠之が謀反を企てている」と訴えるという思い切った行動を起こします。それは、藩取り潰しをなんとか逃れるため、自身が「主に対する反逆の罪」に問われてしまうことも覚悟したうえでの、賭けのような行動でした。

黒田騒動は、君主を守るための騒動だったところに、その特徴がうかがえます。

幕府の判断と栗山大膳のその後 栗山大膳

栗山大膳

栗山大膳の訴えにより、忠之や大膳以下の多くの重臣は江戸にて裁判を受けることになりました。これは、寛永9年(1632年)から寛永10年(1633年)の出来事です。

裁判の結果、忠之は「不行跡」により一旦領地を召し上げられます。しかし、父・長政の過去の戦における功績が認められ、新たに領地をもらい、この騒動は終わりを迎えることとなります。

こうして藩取り潰しを免れ、忠之はその後、島原の乱や長崎警護の任務で活躍しました。対する大膳は、「主君を直訴した罪」によって盛岡藩預かりの身となりました。

しかし、盛岡でも罪人扱いされることはなく、その後62歳で生涯を閉じました。彼のお墓は岩手県盛岡市の「恩流寺」にあります。

いかがでしたか?

この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです!

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