敗者にこそ武士の誇りを!幕末、戊辰戦争で勝利した西郷隆盛が庄内藩士を心服せしめたエピソード

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敗者にこそ武士の誇りを!幕末、戊辰戦争で勝利した西郷隆盛が庄内藩士を心服せしめたエピソード

とかく人間というものは、極限状態になると本性を現わしがちですが、追い詰められた時はもちろんのこと、追い詰めた時もなかなかエグいものがあります。

古今東西、勝者が敗者をあざけり、なぶり、辱める事例は枚挙に暇がないものの、そんな中でもかつての敵に敬意をもって接した人物も確かにいました。

西郷隆盛。Wikipediaより

今回はそんな一人、後に明治三傑(※)の一人と称えられた西郷隆盛(さいごう たかもり)が、幕末の戊辰戦争において出羽庄内藩(現:山形県。酒井氏)を破った時のエピソードを紹介したいと思います。

(※)明治維新において最も功ありとされる三名。西郷の他は大久保利通(おおくぼ としみち)と木戸孝允(きど たかよし。桂小五郎)。

武士の誇りまで奪ってはならない…西郷隆盛の英断

庄内藩主の酒井家は徳川四天王の一人・酒井忠次(さかい ただつぐ)の末裔として代々徳川将軍家に忠義を尽くし、戊辰戦争時の第11代藩主・酒井忠篤(ただずみ)も幕府を守るため最後まで奮戦。

その甲斐あって領内に新政府軍を一歩も侵入させませんでしたが、明治元年(1868年)9月25日ついに降伏。本拠地である鶴ヶ岡城(現:山形県鶴岡市)を開いて西郷隆盛らを迎えることとなったのでした。

鶴ヶ岡城へ迫る新政府軍(イメージ)

「庄賊(庄内藩の賊軍)め、さんざん手こずらせやがって……こっから先はずっと俺たちのターンだ!」

「おうとも、城内に乱入したら略奪に強姦に放火に破壊活動……くぅ~っ、この解放感がたまらねぇよな!」

「だったらまず銃砲はもちろんのこと、刀に至るまで武器はすべて取り上げて、抵抗できないようにしなくちゃならん……」

「好き勝手に踏みにじられても何も抵抗できない、アイツらの悔しそうな顔を早く堪能したいモンだぜ……」

などと邪な欲望を胸にたぎらせ、意気揚々と鶴ヶ岡城を目指す新政府軍の兵士たちでしたが、入城前に西郷隆盛は、逆に自軍の武装をすべて召し上げるよう命じます。

「え?そんなバカな、大将は俺たちに丸腰で敵中に入れと言うのか!」

降伏したとは言え、庄内藩はまだ武装したまま。何よりもまず敵の武装を解除して、身の安全を図るのは至極当然のこと。しかし抗議する部下たちに対して、西郷隆盛は説き諭しました。

部下の武装解除を命じる西郷隆盛(イメージ)

「勝敗は武門の習い。こたび戦に敗れたとは言え、武士の誇りまで奪うことはまかりならぬ。これからは共に新しき日本を創る同志として迎える意思を示すため、あえて寸鉄も帯びず彼らに見(まみ)えるのだ」

かくして西郷隆盛はじめ新政府軍はまったくの丸腰で鶴ヶ岡城に入る一方、庄内藩士らにはそのまま帯刀を認めます。

この前代未聞の態度に庄内藩士もすっかり驚き、西郷隆盛に心服したということです。

終わりに

その後も西郷隆盛を慕う庄内藩士は多く、その教えを乞いにはるばる訪ねていく者や、明治10年(1877年)の西南戦争でも西郷隆盛の下に馳せ参ずる者などが少なくなかったとか。

西南戦争・田原坂の死闘。この中には庄内藩士もいたとか。小林永濯「鹿児島新報田原坂激戦之図」

現代でも西郷隆盛をご祭神に祀る南洲神社(山形県酒田市)や、鶴岡市と鹿児島市の姉妹都市関係など深い絆に結ばれています。

勝利に驕って敗者をなぶるのではなく、戦いが終わった上は共に力を合わせて新たな世を築き上げる。庄内藩士らによって伝えられる西郷隆盛の思想は、百年以上の歳月を経てなお日本国のあるべき姿を訴えているのではないでしょうか。

※参考文献:
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』小学館、2014年1月
山田済斎 編『西郷南洲遺訓 附 手抄言志録及遺文』岩波文庫、1939年2月

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